ず天井といわず、その槍の石突と穂先との両方でブスブスと突き立てたものです。
 幸か不幸か、日頃は少なくも十人以上も、ごろごろしているはずのこの屋敷に、この晩に限って一人もおりません。今頃、彼等は王子稲荷の衣裳榎《いしょうえのき》とやらで狐の面をかぶって、夢中になって化かしつ化かされつしているところでしょう。
 こうして間毎間毎を存分に荒し廻った神尾主膳は、やや暫くあって、再び縁側から池のほとりへ身を現わしました。その吐く息は大風のように、身体の疲れきっているのは綿のようであろうとも、さいぜんからの主膳を物狂わしく働かせているのは、たしかに別に天魔波旬《てんまはじゅん》の力が加わっているのだから、絶え入らないところが不思議です。
 再び池のほとりへ立っていた主膳は、やはり槍は持っていたけれども、獲物《えもの》はありません。お銀様はついにいずれかの方角へ取逃がしてしまいました。
 残念で、無念で、腹が立って、業が煮えてたまらない神尾主膳は、火のように燃える眼を瞋《いか》らして四方をながめる。その池の中がまた火のように燃えているのを認めました。池が燃えているのではない、この時分に、さいぜん焼き残しておいた土蔵の戸前の火が本物になって、炎々と燃え上り、その炎の色が、この池の水を真赤に染めているのです。
 それと気がついて主膳が土蔵の方を見やると、植込の間から猛烈なその火勢がうずまきのぼる。火は土蔵の中へ侵入すると共に、その附近の木小屋へ燃えうつったものらしい。いよいよ本物の火事です。
 その火炎の勢いを見て神尾がはじめて、やや溜飲《りゅういん》を下げました。
 暫くして手製の大炬火《おおたいまつ》を持った神尾主膳は、土蔵に燃えている火を持って来て、本宅の戸と、障子と、襖《ふすま》と、唐紙《からかみ》へうつしはじめました。
 そこで土蔵と本宅とが相呼応して燃え上ります。いかに燃え出しても、この家にはそれを消そうとするものがありません。附近の人々も大方は狐の踊りに出かけているところであります。ようやく人が騒ぎ出して火消が駈けつけた時分には、土蔵も、本宅も、大半は焼けて手のつけようがありません。暁方《あけがた》近くなって、お絹をはじめ踊りに出た連中が帰って見た時分には、土蔵も、本宅も、物置の類《たぐい》も、すっかり焼け落ちていました。

         九

 王子稲荷の衣裳榎《いしょうえのき》から、狐の踊りが流行《はや》り出したということに刺戟されて、上州の茂林寺《もりんじ》から狸の踊りを繰出して、その向うを張ろうというのはばかばかしい凝《こ》り方です。
 人間はそれぞれ負けない根性に支配されて、負けない根性のために、滑稽なる競争と、無用の濫費がつづけられてゆくのが人間の歴史の大部分です。
 茂林寺の狸踊りは、土地の若い者から始まったということだが、おそらくそうではあるまい。江戸のものずきが行って、あらかじめお膳立てをしておいて、それを上州名物の名で、江戸へ繰込ませようという寸法であるとは受取れる。これは茂林寺名物の分福茶釜《ぶんぶくちゃがま》をかたどったもので、それに毛が生えて、絵本通りの狸に化けたところを、大きな張物にこしらえて、それを真中に舁《かつ》ぎ上げて、日ならず江戸の市中へ乗込もうというのは、まだ噂《うわさ》だけであって事実に現われたわけではないが、その噂は早くもこちらに響いて喧《かまびす》しいものです。
 王子から狐、上州から狸の挟撃《はさみうち》にあって、それを江戸ッ児が黙って見ているつもりかどうか、と余計なところに気を揉《も》む者もあります。
「近いうちに、お狸様がおいでなさるそうですね」
「左様でございます、お近いうちに、お狸様のお通りがあるそうでございます、どこらをお通りになるか、それはまだわかりませんそうでございます」
 水戸様街道といわれる松戸の方面や、奥州仙台|陸奥守《むつのかみ》がお通りになるという千住《せんじゅ》の方面から、中仙道の板橋あたりでも、お爺さんやお婆さんが、真面《まがお》になってその噂をしているほどに評判になりました。街道の商人らは、それでももし、お狸様がお通りになるならば、なるべく自分たちの方の街道を通っていただきたいものだと、ひそかに願っていないものはありません。
「お狸様のお通りは一体、いつ頃なんでございましょう」
「まだそのお日取りがきまりませんそうで」
 商人たちが心配するのは、そのお通りの日と、お道筋とによって、商品の仕込みをしなければならないのであります。
 すでにお狐様があり、またお鷲様《とりさま》があり、ここにお狸様が崇拝されることも当然であります。明治の世になって、東京と横浜の間に一つの穴が発見せられました。それが忽《たちま》ち大穴様となって、京浜の人士を無数にひきよせ、そ
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