間《すきま》もなく、やっと掻巻《かいまき》から抜け出したばかりのお銀様の腰を立て直す隙もあらせず、神尾が突っかけて来る槍は凄いばかりです。
「誰か来て下さい」
さすがにお銀様は女ですから、こうなってみると我知らず叫びを立てました。
この叫びはかえって神尾にとっては、よい目標を与えたようなもので、得たりと畳みかけて突っかけるのを、幸いに梅の木があったから、それを廻り込んでお銀様は、またしても暫しの息をつきました。
その梅の木の前から諸突《もろづ》きにしてみたけれども、それが外れたと見え、神尾は左からねらって突きました。それも手答えがなかったために、右から覘《ねら》って突いたけれども、お銀様の身には当りません。こうなると神尾は再び激昂を始めました。
お銀様と神尾とは、槎※[#「木+牙」、第4水準2−14−40]《さが》たる梅の大木を七たび廻って、追いつ追われつしています。
「誰か来て下さい」
ふたたびお銀様が叫びを立てた時分には、神尾とても、これが目的のお喋り坊主ではなく、日頃|苦手《にがて》のお銀様であったことに気がついたのでしょう。しかしながら、今となってはかえってそれが面白そうです。当の敵は変っても、苦しむことに変りはない。苦しめて興の多いことにも変りはないのだから、神尾は一層の惨忍なる好奇を振い起して、お銀様に槍を突掛け突掛けて、更に萎《ひる》む色がありません。
梅の木の周囲をグルグル廻って必死に逃げているけれど、前に言う通り狂っているとは言い条、神尾の槍は相当の覚えのある槍であって、それに油を差した兇暴性が加わっているのだから、槍の筋は存外狂わず、その精力も容易には衰えません。お銀様は命からがら逃げ廻っているうちに、帯がほどけました。ほどけた帯を踏んで危うく倒れようとして帯に手をやった時、覚えずその手に触れたのが、土蔵の二階から駆け下りる時に手に触れた脇差であります。お銀様は帯をかいこむと一緒に、その脇差を抜き放ちました。片手では帯をからみながら、片手でその脇差を構えたのは多分、神尾の槍をあしらうつもりでありましょう。
こうして見るとお銀様には、どうも多少、武術の心得があるようです。女軽業の親方のお角ほどの女が、お銀様を怖れるのは、一つはお銀様の傍には大抵の時には脇差がひきつけてあって、話の調子によっては、いつそれが鞘走《さやばし》るか知れないような心持がすると話したことがあります。神尾主膳もその後、お銀様に対してはうっかり冗談もいえないと言ったのは、たしかにその用心があるらしいからです。
女だてらに脇差を抜いて、一方に槍を防ぎながらお銀様は、ようやく梅の木を離れて樫《かし》の木の後ろへ避けることができました。覚束《おぼつか》ないうちに本性がいよいよ冴《さ》えて、神尾主膳は透《す》かさずそれを追いかけました。
樫の木を移ってお銀様が、石燈籠《いしどうろう》の蔭へ避けた時に、神尾主膳はさながら絵に見る悪鬼の形相《ぎょうそう》です。いかなるところへ逃げ隠れようとも、この怨敵《おんてき》を突き伏せずしては置かずという意気込みで、燈籠の屋根の上や、台石の横から無二無三に突き立てました。
形ばかりに脇差を構えたお銀様は、それを振閃《ふりひらめ》かしては槍の穂先を逃れようとする。槍はしばしば流れ、手元はしばしば狂うけれども、その狂暴はいよいよ衰うることあるべしとも覚えません。ついに石燈籠もろともに、お銀様を縫いつけるのかと思われるばかりです。
お銀様は石燈籠の蔭から追いつめられたのが池の端《はた》です。池の汀《みぎわ》を伝って逃げると巌石がある。後ろへすされば一歩にして水です。進退|谷《きわ》まったお銀様は、ついに脇差を振り上げて、勢い込んで追いかけて来た神尾主膳の面《かお》をのぞんで、その脇差を投げつけました。
その覘《ねら》いは過《あやま》たず、神尾の面上へ飛んで来たから、狂乱の神尾も落ちかかる刃を払わずにはおられません。それを槍の柄で払おうとして、あぶない足許が一層あぶなくなって、ついに堪らず※[#「てへん+堂」、第4水準2−13−41]《どう》と尻餅をついたのが、お銀様にとっては命の親でありました。
この僅かの間を利用してお銀様は、池の端《はた》を通って、橋を飛び越えて、一息に本邸の縁側へ飛び上って、障子を蹴開いて奥へ逃げ込みました。
つづいて起き上った神尾主膳は、同じように池を飛び越えて縁の上へはね上ったが、ここではお銀様が広い母屋のいずれの部屋へ逃げ込んで、いずれの方角から抜け出したかということは更にわかりません。
主膳がただ何事をか、しきりに怒号して間毎間毎を荒し廻っている音声が、外で聞くとものすごいばかりです。いつまでたっても例の槍ははなさず、間毎間毎を荒し廻りながら、襖《ふすま》といわ
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