尾主膳は、母屋へ行って蝋燭へ火をつけて来ました。さいぜんのガサガサは、実にこの土蔵の戸前を焼こうとする材料を集めていたのだと気のついた時には、決して好い心持はしません。
 神尾主膳はたしか、提灯へ入れて持って来た蝋燭を裸にして、それを積み上げた枯葉と木の枝と薪の中へ突込んで、火をつけはじめたものです。それと覚《さと》ったお銀様がじっとしておられないのはその道理です。
 主膳のやりそうなことであると思いました。酒に乱れて惨忍性を発揮せられた時の神尾は、たしかにそのくらいのことはやり兼ねません。また、そういう場合に限って、惨忍性を煽《あお》るには都合のよい知恵だけが働くように出来た神尾の性格を知っているだけに、お銀様の怖れが一層深くないということはありません。
 この土蔵は一方口である。前に火をつけられると後ろへ逃げることができない。横にも縦にも、蹴破って走るというわけにもゆかない。二階に窓があるにはあるけれども、それは筋鉄《すじがね》が入って鉄の網が張ってある。逃げるのならば今のうちである。火の手のまだ揚らない先に内から戸を押開いて、そこを突破するよりほかは手段も方法も無いことです。聡明なお銀様がそこに気のつかないはずはありません。同時にまた走り出せば当然、神尾の網にひっかかることを覚悟しなければならないのを知らないはずはありません。神尾の憎んでいるのは盲法師の弁信にあるらしいけれど、さりとてこうなった時には、獲物《えもの》の見さかいがあるべしとは思われない。土蔵の戸前を突破し得た時は、神尾の槍先が待っている。最後までここに踏みとどまって焼け死ぬか、それとも一刻を争うて突破を試むるか。お銀様は手早く身づくろいしました。同時に神尾の声高く笑うのが聞えます。
「アハハハハ、火水《ひみず》の苦しみとはこれだ、水の中へ投げ込まれて往生のしきれぬ奴が、火の中で焼け死ぬのだ、お喋り坊主、これでも出て来ないか」
 パチパチと火の燃える音が聞えます。プスプスと枯葉のいぶる音も聞えます。土蔵の戸前は非常に厚味のある板を二重に張って、中には筋鉄《すじがね》が入って、上の部分がやっと日の目の透るほどの格子になっているから、そう容易《たやす》く焼け抜けるとも思われないが、相手は火であるから、相当の時間と力が加われば何物をも燃やしてしまいます。それが燃える時分には、土蔵の中は煙でいっぱいになって、火で焼け死ぬ前に、人は煙のために窒息してしまわねばならないことは明らかです。
 身仕度したお銀様は、この際に何を持って出ようとの分別はありませんでした。手に触れた一本の脇差を持って、土蔵の二階の梯子段を転がるように走せ下りました。
「お喋り坊主、何か文句があるならここで一番、喋ってみろ、久しく乾いているから、メラメラと赤い舌を出して小気味よく燃える、井戸の底へ投げ込まれて往生をしそこなうのと、火の中で苦しがるのとどちらがよい、貴様のために、この面体《めんてい》に生れもつかぬ大傷が出来た、それが憎いからこうしてくれるのだ、よく焼かれて往生しろ」
 神尾主膳は濡れみづくになった身体で、燃えさかる火を望んでは喜び狂い、手に持った槍の石突を火の中へ突込んでは薪を浮かせて、火勢を煽《あお》ろうとしています。
 頭から掻巻《かいまき》を被《かぶ》ったお銀様が、内から戸を押開いて、脱兎《だっと》の勢いで、その燃えさかる火の中へ飛び出したのはこの時であります。
「熱《あつ》、熱、熱」
 お銀様は火を踏んで、掻巻もろともにその中を転がり出しました。
「熱、熱、熱」
 同じように叫んで火の外に転がったのは、神尾主膳であります。
「熱、熱、熱、出たな坊主、熱」
 お銀様も転がる、主膳も転がって起き上れない。勢いのようやく加わった火は炎々と燃え上ります。
 頭から掻巻を被ったお銀様が、俵を転がしたように火の中を転がり出ると、それに驚いた神尾主膳が、同じように槍を持ったまま転がりました。
「出たな坊主」
 それでも神尾の転がったのは、それと見定めてから転がったものらしく、転がっても槍は手放さないで、二三度もがいてから起き直った時に、その槍をとりのべて、眼前に転がり出した掻巻の俵を伸突《のべつ》きに突きました。
 ところが慌《あわ》てているから、槍の石突で突いてしまっているから、また槍を取り直す時にお銀様は、ようやく掻巻の中から脱け出すと、その鼻先に神尾の槍の穂の稲妻《いなずま》です。危うくその槍の穂先を避けましたけれども、神尾の足許も手先も狂いきって、繰りのべる槍も、手許へ引く槍も、すこぶる怪しいものとは言いながら、たしかにめざすものを見かけて突く槍です。ことに相当に鍛錬を積んでいる槍ですから、一つ逃れてまた一つです。それを逃れると、ひょろひょろしながらも、よろよろしながらも、ほとんど透
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