と軋《きし》るたびに、私の骨と肉がそれだけ擦り減らされて参りますのです、死んだ後までも、私がかわいそうだと思召すなら、どうか、あの車井戸の音だけでも差止めて下さい、ああ、苦しい、私は神尾主膳のために、鉄《くろがね》の熊手で骨と肉とを掻きむしられながら、地獄の底へ落ちて行くのでございます」
お銀様の耳には、車井戸の音も、神尾の怒号も、一つになって幸内が恨みとなって響いて来るのです。
「わたしは、あの車井戸の音がいやだ、夜更けにあの音を聞くのはいやだ」
お銀様は目を閉じて幸内の面影《おもかげ》を見まいとし、耳をふさいで車井戸の音を聞くまいとしました。けれども車井戸は一倍けたたましく軋り、神尾の怒号は、耳をふさいでいるお銀様の両手をもぎ離すほどに烈しく鳴りはためいて、
「寝ても醒めても、貴様のお喋りが癇にさわってたまらない、井戸の中から出て来い、それとも土蔵の中に隠れているのか、土蔵の中に隠れているならば、土蔵の戸を押破って、この槍で突き殺してくれよう」
散々《さんざん》に井戸へ当り散らした神尾主膳は、投げ捨てた槍を拾い取って、この土蔵をめがけて突進して来ました。
神尾主膳は土蔵の引戸を手荒く引っぱったけれども、それは内から錠《じょう》が卸してあって、引いても押しても容易にあくものではありません。
そのたびに激昂する主膳は、ドシンドシンと戸前にぶっつかりはじめます。果ては槍の石突で戸の隙をコジにかかります。けれども尋常の雨戸と違って、いったん、内から錠を卸した以上は、兇暴な力を以てしても外から打ちこわすわけにはゆきません。
自分の力いっぱいの暴力を利用したけれども、ビクともしないので神尾は、いよいよ激昂しているが、その激昂はいたずらごとで、この時分にはお銀様も、神尾の無駄骨折りを冷笑するくらいの余裕を持っておりました。破れるものなら破ってごらん、という驕《おご》れる態度を以て、お銀様は戸前で狂っている神尾主膳を笑止《しょうし》がっていました。
さりとて、お銀様のこの驕慢心が永く続くものではありません。常識を失っているとはいえ、兇暴の時には兇暴の知恵が働くものであります。
「坊主、お喋り坊主、中で押えてるな、小癪な奴だ、しっかりと押えてあかないようにしているな、よし覚えていろ、今、あくようにしてあけて見せるからな」
神尾主膳はこう言って、暫く暴力を中止しましたから、中でお銀様は、それ見ろと言わぬばかりの心持です。それは力の尽きた神尾主膳が、負惜みから言った捨台詞《すてぜりふ》と思ったからです。この捨台詞で引上げて、母屋《おもや》へ帰って寝込んでしまうのが落ちだろうと思ったからです。
果せる哉《かな》、それから後は扉へ突当る音もしなければ、押したり引いたりしてみることもなく、槍を隙間へ突込んでコジあけようとするような無茶な物音も聞えません。しかし、左様な物音が聞えないからといって、それは決して神尾主膳がこの場を去って、母屋へ引揚げたのではありません。神尾主膳は今もなお土蔵の周囲をうろうろしながら、よろめく足を踏み締めては酔眼を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》って、槍は片手に、そこらあたりから頻《しき》りに物を掻き集めています。その掻き集めている物というのは、荒れた庭内に落ちている杉の枯葉だの、木の枝だの、竹の折れだのという物を、手に任せて掻き集めているのであります。危なっかしい手つきで、それを掻き集めては例の土蔵の戸前へ持って来て、無暗に積むものだから、忽ち小山のように盛り上げてしまいました。
「占《し》めた!」
最後に神尾主膳が、槍を投げ出して両手で抱え込んだのは一束《ひとたば》の薪です。その土蔵の廂《ひさし》に高く積み上げてあった薪の束を発見したからのことで、それを発見すると神尾は占めたとばかり、槍を投げ出して、一束ずつ抱え出して、前に積み上げた枯葉や、木の枝の上へ、左右から立てかけたものです。
時分はよしと見た頃合に、主膳は、やはり本性《ほんしょう》たがわず、投げ出しておいた槍を手さぐりに拾い取って、
「坊主、覚えていろ、今、あくようにしてあけて見せるから後悔するな」
こう言って、今度は、たしかにこの土蔵の前を立去って、母屋の方へ行く足音がします。
お銀様は神尾の挙動がわからないから、この時も負惜みの捨台詞《すてぜりふ》だろうと思って、やはり七分の冷笑気味でおりましたが、暫くして、また足音が聞え出したので、オヤと思いました。さても執念深い、力が尽きて、テレ隠しの捨台詞で、母屋へ逃げ帰って寝込んだものだろうと思っていたところが、たしかにまた、やって来た。
「さあ、どうだ、お喋り坊主、この蝋燭《ろうそく》で焼き殺してくれるぞ」
その声を聞いたお銀様がたちあがらないわけにはゆきません。事実神
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