、あぶない足を踏みしめると、長押《なげし》にかけた槍を取卸しました。逆上すると槍を取るのが神尾の癖であります。
「騒々しいわい、者共、何が面白くって踊るのだ」
 槍をしごいて縁側から庭へ飛んで下りました。けれども、今宵《こよい》に限って誰もお危のうございますと言って止める者はありません。荒《あば》れ出した神尾主膳は、この手槍で真一文字に庭の石燈籠へ突っかけて行きました。それが真面《まとも》に石燈籠へ当ったら、槍の穂先もポッキリと折れるのでしょうが、燈籠の屋根の上を掠《かす》めて流れたから、そのハズミで主膳は石燈籠へブッつかって、※[#「てへん+堂」、第4水準2−13−41]《どう》と後ろへ倒れました。
 神尾主膳は、起き上って手近な植木を滅茶滅茶に突き立てます。主膳の眼には石燈籠も立木もみんな人間に見えて、当るを幸い、それを突き伏せていることに、少なからず痛快を貪《むさぼ》っているようなあんばいです。幸か不幸か、いくら荒れ狂っても相手が石燈籠であり、植木であるから、手答えはあっても手向いはありません。それに、一家を挙げての留守と来ているから、荒れたい放題に荒れたところで、それを取押えようとする者がないから、神尾主膳は思うままにその酒乱と逆上とを発揮することができました。さりとて、先方が全然無抵抗であるとはいえ、もと、人間の暴力には限りがあるものであります。放っておけばおのずから疲れて、暴力そのものが無抵抗の中へ沈没してしまうにきまっております。神尾はついに綿の如く疲労してしまいました。それでも、水が飲みたくなると共に、井戸までのたって行くの本能だけは残っておりました。
 例の井戸のところまでのたりついて行って、無暗に水を汲み上げて、釣瓶《つるべ》に口をつけてガブガブと飲んでいたが、いい加減飲むと共に、その残った水を頭からザブリと被《かぶ》り、
「ああ、いい心持だ」
 つづいて釣瓶を繰り卸して汲み上げると共に、水をまた頭からザブリと被って、
「なんといういい心持なことだ」
 釣瓶を卸して二杯三杯汲み上げては、それを頭から被り、頭から被っては、また汲み上げるのが、やはり正気の沙汰ではありません。五杯も十杯も十五杯も汲んでは被り、被っては汲み、その度毎に、車井戸の車がけたたましい音を立てて火の発するほどに軋《きし》ります。程遠からぬ庭の土蔵の二階には、この車井戸の音が大嫌いなお銀様が、もしいるならば、今頃もたしかに、血を刺して、お経を書いていなければならないはずです。
 その水を汲むたびに井戸をのぞき込むと、神尾主膳は血管が裂けるほどに憤《おこ》り出して、
「お喋り坊主、出て来い」
と怒号します。主膳の眼には、たしかにこの井戸の底にお喋り坊主がいて、減らず口を叩いて自分を、おひゃらかしでもするものと見ているらしい。
「お喋り坊主、貴様の言い草が、いまだに耳に残って不愉快千万でたまらぬわい、おそらく一生のうちに、貴様ほど不愉快な奴はなかろう、貴様のことを思い出すと、骨から肉が浮び出すほど忌《いや》になるわい、つべこべと尋ねられもしないお喋りを、井戸へ投げ込まれてまで喋りつづけている声が、地獄の底から迷うて来たもののように耳に残っている、思い出しても癇《かん》にさわってたまらぬ、貴様を引き出して、骨も身も一度に擦りつぶしてくれぬ上は、この癇が納まらぬわい」
 神尾主膳はこう言って地団駄を踏みながら、しきりに水を汲み上げては被ります。その度毎に、弁信に対する恨みは骨髄に徹するもののように、身を戦《わなな》かせるのであります。
 果してお銀様はその時、たった一人で土蔵の中でお経を写しておりました。針で自分の肉体を刺して、その血で丹念に一字一字の法華経を写して「我此土《がしど》安穏、天人《てんじん》常充満」というところに至った時に、車井戸がキリキリと鳴り出したから、お銀様はゾッと身ぶるいをして筆を下へ置きます。
「お喋り坊主」
 神尾の世にも口惜《くや》しそうな声が、そのいやな深夜の車井戸の響きと共に、お銀様の耳朶《じだ》に触れると共に、お銀様の眼前に現われたのは、そのお喋り坊主の弁信の姿ではなく、甲州でむごたらしい虐殺に遇って、訴うるところなき恨みを呑んで横死を遂げた愛人の幸内が姿であります。
「お嬢様、あなたは幸内がかわいそうだと思召《おぼしめ》しになりませんか、もし幸内がかわいそうだと思召すなら、なぜ、あなたは神尾主膳を殺して下さらない、神尾を討って幸内の仇を酬《むく》いて下さらないのがお恨みでございます、倶《とも》に天を戴かずと申しますのに、私をなぶり殺しにした神尾主膳と、そうして同じ屋敷に住んでいていいのですか、それでこの世に残した幸内の恨みが消えると思召しますか、今も神尾主膳は、ああして私を苦しめています、あの車井戸の音がキリキリ
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