立ちました。
 踊りの同勢がこの化物屋敷の前へ来て、そこでまた盛んに踊り出している時に、
「喧《やかま》しいやい」
 神尾だけが焦れているけれども、そのほかの連中は面白がって出て見ます。
 離れにいたお絹もまた、じっとしてはいられません。女中を連れて垣根からしきりに踊りを見物していたが、つい面白さに釣り込まれて、門の前へ出てしまいました。
「このお屋敷の中には、たしか八幡《やわた》のお稲荷様がありましたぜ、お稲荷様の前で踊らせてもらいましょう」
「そういうことに願いましょう」
 同勢は踊りの威勢で、化物屋敷の中へ混み入ってしまいました。もとより形の如き荒れ屋敷ですから、門と垣根の締りも厳重というわけにはゆきません。屋敷の中へ混み入った同勢は、庭の方へと踊って行き、提灯《ちょうちん》をブラ下げて、えいや、えいや、と踊りはじめました。
 迷惑がった連中も、実はそれが面白いので、大いにおだてて踊らせたいくらいであるが、神尾主膳はその物騒がしさを聞くと赫《かっ》と逆上しました。
「誰にことわってこの屋敷へ入った、追い返せ」
 ひとりで喚《わめ》いているけれども、誰も相手にする者がありません。
 繰込んできた同勢は手を取り組んで、ここの木蔭や、かしこの築山《つきやま》の蔭で散々《さんざん》に踊ります。はじめのうちは頬冠《ほおかぶ》りをしている者も多かったが、いつか知らずそれも脱《ぬ》けて落ちて、果ては自分の帯の解けて落ちたのを知らないで、踊り狂う女もありました。
「お屋敷のお方も踊りなさい、皆さん一緒に踊りましょう」
 踊りの同勢は見物のすべてを踊りに巻き込まずにはおきません。それを巻き込んで行くから、おのずと同勢が殖えてゆくのです。
「どうも御苦労さまでした、また明晩も来て踊って下さい、待っていますから」
 夜明け近くになって、踊りがいよいよハネようとした時に、お絹の挨拶がこうです。だから、いやでもその翌晩、この踊りの同勢が繰込まないという限りはありません。
 果して翌晩、また同勢が押寄せて来たには押寄せて来たが、驚かされたことには、その多数の人が悉《ことごと》く、紙製の狐の面をかぶって来たことです。
「これから王子の衣裳榎《いしょうえのき》へ行って踊ります、皆さん、後からいらっしゃい」
 こう言って狐の面をかぶった者共が、この化物屋敷の前で、あっさり踊ると、今晩は屋敷の中へは入らないで行ってしまいます。多分これから王子の稲荷の衣裳榎とやらへ行って散々《さんざん》に踊るのでしょう。
 その翌日になってみると大きな評判が立ちました。王子の稲荷の衣裳榎の下へ、関八州の狐が悉く集まるという噂であります。それで十里四方から狐火が炬火《たいまつ》のように続くという噂であります。それを見物せんがために、江戸の市中をはじめ近在から集まる人が雲の如しという噂であります。ついには人と狐が一緒になって踊り出し、人が狐だか、狐が人だかわからないで踊り出すという噂がいっぱいに拡がりました。
 これによって見ると、今年はたしかに豊年である。こうして衣裳榎へ多数の狐が集まるのは、それぞれの狐がみな官位を欲しがるからで、それと人間と一緒になって踊るのは、人間も狐も共に有卦《うけ》に入ったのだという縁喜のよい解釈であります。今夜はまた昨晩よりは一層盛んで、これから毎夜の如く、人と狐の踊りがあるだろうという評判です。
 化物屋敷の離れにいたお絹はその評判を聞くと、昨晩貰い受けた狐の面を取り上げて、女中を相手にその話をしていたが、今晩は王子の稲荷まで出かけてみようとの相談です。
 お絹が王子稲荷の踊りへ出かけるという話を聞くと、べつだん誘いをかけたわけでもないが、化物屋敷に居合わせた御家人崩れの連中が、我も我もとお伴《とも》を志願することになった。ここから繰り出しただけでも十人余りです。
 してみると、屋敷に残されたのは、神尾主膳ひとりであります。彼等は主膳に酒を飲ませておいて――ではない、主膳が昨晩から酒浸《さけびた》りになって、今は熟睡しているのをよいことにして、体《てい》のいい置いてけぼり[#「置いてけぼり」に傍点]を食わせて、みんな出払ってしまいました。こうなると、これらの連中はかなり薄情なものであります。
 眼が醒《さ》めて神尾主膳は、しきりに水を呼びました。けれども、水を持って来るものはありません。返事をする者もありません。
 神尾は病床でしきりに怒鳴りました。いくら怒鳴っても、今宵に限ってこの化物屋敷には人間一人いないのですから、神尾の怒鳴りも空雷《くうらい》に過ぎないのです。酒を多く飲めば酒乱の萌《きざ》しがあり、今も飲んだ酒が醒めたというわけではないのですから、主膳は赫《かっ》と怒り、一時に逆上《のぼ》せあがりました。病床からよろよろと這《は》い出して
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