ている形は、見事というべきものです。
 そこで、一座の連中は忽《たちま》ち、以前の通りに席に戻って、身にふりかかる灰神楽《はいかぐら》を払おうともせずに、再び座を正して、相変らず弾じつづけている木崎原の一曲に耳を傾けはじめました。
 それですから爆発も、その爆発から起った狼狽も、ほんの瞬時の光景で、席は以前と同じことの静粛なものに返り、琵琶の弾者は一層の勇気を以て、首尾よく木崎原の初段を語り済ましました。
 その曲が終った後に一同が初めて、ホッと息をついて、さて、いま起った不意の椿事の原因いかにと眼を光らした時に、犠牲となった薬鑵をつるし上げて、莞爾《かんじ》として火鉢の灰を掻きならしているのが益満《ますみつ》です。
 一座の者の荒胆《あらぎも》を挫《ひし》いで興がるために、火鉢の中へ弾丸をうずめておいたものがある。それが刎《は》ね出した時に、一座の狼狽ぶりを見て笑ってやろうという悪戯者《いたずらもの》があったのだと思いました。して、その悪戯者は誰であろう、多分、薬鑵をつるしてほほ笑んでいる益満の仕業ではなかろうかと思いました。
 その場は、これだけの悪戯《いたずら》で済んだけれども、その翌日あたりから、この種類の悪戯を江戸の真中に向って試みて、市中の狼狽ぶりを見物しようという評議が、この物騒な屋敷の中で行われるようになると穏かではありません。
 穏かでないのはこの屋敷に限ったことはありません。この頃、一体の世間がそうであります。いつも暢気《のんき》であるべきはずの長者町の道庵先生の屋敷までが、この穏かならぬ雲行きに襲われているというのは嘘のような真実《まこと》であります。先生は相変らずだが、その子分たちが枕を高くして寝られないことがたった一つあります。それはほかでもない、洋行に出かけた鰡八大尽《ぼらはちだいじん》がいつ帰って来ないものともわかりません。帰って来れば必ず、これ見よがしのお祝いが、この隣りの御殿で行われるにきまっています。その際において、指を啣《くわ》えて見物していなければならないことの残念さを思うと、子分の者が躍起になるのも無理はありません。そこで、今のうちから、それに対抗する方針を考えておかなければならないと、道庵の子分たちが、夜の目も寝ずに苦心していることの体《てい》は、よその見る目も哀れであります。

         八

 染井の化物屋敷はまた化物屋敷で、神尾主膳はあの時の井戸釣瓶《いどつるべ》の怪我からまだ枕が上らないで、横になりながら焦《じ》れきっています。眉間《みけん》につけられた牡丹餅大《ぼたもちだい》の傷は癒着《ゆちゃく》したけれども、その見苦しい痕跡《こんせき》ばかりは、拭っても、削っても取れません。
 そうして時々思い出しては歯噛みをして、
「あいつ、お喋り坊主はどこへ失《う》せおったかなあ」
 取捉《とっつか》まえて八つ裂きにしてやりたいほどの口惜《くや》しがり方です。弁信の方にこそ怨みはあれ、神尾のこのていたらくは言わば自業自得に過ぎないのに、その逆さ怨みが、因縁《いんねん》ずくと思われるほどに骨身に食い入っていて、明暮《あけくれ》、弁信を憎み憤っていたが、さてその後、弁信は再び彼《か》の土蔵へは帰って来ませんでした。弁信が帰らないのみならず、それと一緒に出た竜之助も、あれからまた再び戻っては来ません。お銀様は、土蔵の中に引籠《ひきこも》って、針で血を刺してはお経を写すことを、以前のように繰返しているらしい。
 或る夜、神尾主膳は囈言《うわごと》のように、枕許にいた福村を呼んでこう言いました、
「福村、このごろ、毎夜のように、この屋敷へ狸が入り込むな」
「狸? そんなことはござるまい」
「夜中に眼が醒《さ》めると、狸の足音がする、耳を澄まして聞いていると、離れの方へ忍んで行くようだ、おれは、二晩までその足音を聞いた、この調子だと今夜あたりもやって来るぜ、取捉まえてやろうと思うが、足音だけが聞えて、身体が利《き》かぬ」
「それは穏かでない、いったい、狸の足音というのを、どうして大将は聞き分けた、狸なら狸のように、もし人間であったら人間のように、ずいぶん打捨《うっちゃ》っちゃおけねえ」
と言って福村は、今更のように離れの方を見ました。離れには例のお絹がいます。
 福村は気をつけていたけれども、その晩は狸の足音は聞えない代りに、遠からぬところで狸囃子《たぬきばやし》の音が起るのを聞きました。
 その翌日の晩もまた、お囃子の音が賑やかに宵のうちから響き出しました。この屋敷の界隈《かいわい》でも、例の踊りが流行《はや》り出したものです。
「うるさい百姓共だ、誰か行ってあれをさしとめて来い」
 神尾主膳は病床のうちで、そのお囃子を焦《じ》れったがったけれども、ほかの連中はかえってそのお囃子で浮き
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