「つらつら世間の現象を観ずるに、積善の家には余慶あり、積悪の家には余殃《よおう》あり、尤《もっと》も慎むべきは此道也、ここに薩隅日三州の太守、島津|修理太夫《しゅりだいふ》義久と申し奉るは、うやうやしくも清和天皇の御苗裔《ごびょうえい》、鎌倉右大将征夷大将軍源頼朝公の御子、左衛門尉《さえもんのじょう》忠久公より十六代目の御嫡孫也、文武二道の名将にて、上を敬ひ下を撫で、仁義正しくましませば、靡《なび》かん草木はなかりけり、御舎弟には兵庫頭《ひょうごのかみ》忠平公、左衛門尉歳久公、中務大輔《なかつかさたいふ》家久公とて、何れも文武の名将なり、其の外、家の子|郎等《ろうとう》に至るまで、皆忠勤を励ませば、古今稀なる御果報、近国他国の者までも、羨まざらんはなかりけり……」
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 こんなふうに、薩摩の国主の讃美歌になっているのだから、苟《いやし》くも薩摩に縁のあるものがこの歌を聞く時、多くの敬意を表さなければならないのは当然であります。
 こうして一座が水を打ったようになり、歌う人の意気が、いよいよ昂《あが》って、
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「彼《か》の島津殿と申すは、かたじけなくも清和天皇の御末、多田満仲《ただのみつなか》よりこのかた、弓箭《ゆみや》の家に誉を取り、政道を賢くし給へば……」
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という大干《たいかん》にかかった時に、最初から鼻をひこつかせていた盲法師《めくらほうし》の弁信が、いよいよ法然頭を前後左右に振り立てて、さながら見えぬ眼に、何かを探そうとするらしき振舞のみが甚だ目ざわりです。
 この弁信もまた、自ら名乗るところの如く、上手か下手かは知らないが、かりそめにもその道に心得のあるものだから、礼儀から言っても、趣味から言っても、もっと温和《おとな》しくしていなければならないはずのが、ついに堪り兼ねると見えて、
「あ、もし、皆様、せっかくの弾曲の間を大変に失礼でございますけれども、皆様に申し上げなければならないことが出来ました」
 琵琶歌の半ばに、席の隅っこにいた見慣れぬ小坊主が叫び出したから、
「叱《し》ッ」
 叱りつけた者がありましたけれど、弁信はそれを耳にも入れないで、
「もし、皆様、火薬の臭《にお》いが致しまする、このお部屋の中に烟硝《えんしょう》の臭いが致しまする」
 言いも終らぬ時に、轟然《ごうぜん》たる響きと共にこの一室が、裂けて飛んだかと思われる家鳴《やなり》震動です。
 静粛な弾曲の半ばに思い設けぬこの出来事は、一座のすべてを驚かさないわけにはゆきません。少なくとも三十余人は集まっていた勇士豪傑の驚きぶりが、またそれぞれ個性を発揮しているところが面白いと言えば面白いものです。或る者は二三間飛び退いて太刀を抜かんと構えました。或る者は下へつくばる[#「つくばる」に傍点]ようにして、身を沈めながら敵の呼吸を見るような形であります。或る者はまた、列座のうちの少年をかこうて、身を以て降りかかる災難に当ろうとするもあります。
 けれども、誰ひとり、この思い設けぬ出来事の原因を知ったものはありません。謀叛人《むほんにん》がこの屋敷へきりこんだというわけでもなく、また謀叛が発覚して御用の手が混み入ったというわけでもなく、ただ一発の弾丸が――それも無論、大砲の丸《たま》ではなく小銃の弾丸が、つまり火鉢にかけた薬鑵《やかん》の下から爆発して、この場の空気をかくの如く破りました。
 さりとて人命には露ほどの怪我はなく、犠牲になったものと言えば火鉢の薬鑵があるのみです。けれどもたとえ、小銃の弾丸一発といえども、在るべからざるところに在り、発すべからざるところに発したのは、どうしても由々《ゆゆ》しき出来事といわねばならぬ。
 この出来事のために、集まっている人々の日頃の嗜《たしな》みというものが、露骨に現わされたことは、一種の試験といえば試験のようなものです。前に言ったような余裕を見せたのは、さすがに見苦しくもありませんでしたが、中には正銘に狼狽《ろうばい》して四つん這《ば》いの形になった者もないではありません。殊に道庵先生の如きは、たしかにそれまで居眠りをしていたものと見えて、その響きが起るや否や脆《もろ》くもひっくり返り、それも一つで済むのを、三ツ四ツ一度に宙返りをして、廊下の隅へころがり出して腰を抜かした形などは醜態です。最初に警告を与えた弁信法師は、爆発起ると見るや衣の袖に頭を包んで、その場に突伏してしまいました。
 見上げたのは、木崎原の一曲を弾じている琵琶の老手で、この不時の出来事のために、撥《ばち》の捌《さば》きが少しも狂わず、歌いかけた歌の詞《ことば》に滞りがあるでもありません。大風の吹き去ったあとの枯野に端坐している心持で、従容《しょうよう》としてその一曲を弾じつづけ
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