開くようになりましたのでございます。いよいよ尊者が心眼をお開きになりました時に、妙音弁才天が十五童子をひきつれて、お釈迦様の御前で、琵琶の妙音曲を巌窟尊者にお授けになりました。その頃、中天竺に阿育大王《あいくだいおう》とおっしゃる王様がございまして、そのお世継《よつぎ》が倶奈羅太子《ぐならたいし》と仰せられました、一国の太子とお生れになりましたけれども、何の因果か、このお方がふとお眼をおわずらいになって、私共同様の盲目《めくら》の身となっておしまいになりました。四海を治め給う御方でも、私共のような漂泊《さすらい》の小坊主でも、眼が見えなくなりましては世間は闇でございます……」
「おやおや、雨が降って来ましたぜ」
 さきほどから怪しかった空がバラバラと雨を落して来たので、集まっていたものがどよめき渡りました。そこで盲目法師のお喋りも一段落になって、濡れるを厭《いと》う人たちは、右往左往に馳せ出しました。

「もし、先生、長者町の道庵先生は、まだお屋敷にいらっしゃいますか、それとももはやお帰りになりましたか」
 弁信の姿が表の門のところに現われて、案内を頼みましたのは、それより後のことでしたけれど、やや暫くというものは返答がありません。返答がありませんでしたけれど、自分の訪れは奥へ届いたものと信じて弁信は、それ以上には念を押さずに待っておりました。果してバタバタと廊下を渡って迎えに来た者があります。
「おお、あなたは弁信さんとおっしゃるお方でしたか、あなたも琵琶をお弾きになるそうですね、ただいま、こちらにも琵琶のお上手な方がおいでになりました、道庵先生もそれをお聞きになっていらっしゃいます、ぜひ、あなたもその席へおいで下さるようにと、先生も、皆様も、そう申しておいでなさいます、さあ、お上りくださいまし」
 こう言って、わざわざ奥から弁信を迎えに来たのはお松であります。
「左様でございましたか、実は私もただいま外でお聞き申していたところでございました、それを聞かせていただきますれば、私と致しましても願ったり叶ったりでございます。そういうことでございますなら、好きな道でございますから、遠慮なしに上らせていただきますでございます」
 弁信は杖をさしおいて、はや玄関へのぼってしまいました。
 やがて弁信が広間へ案内されて見ると――弁信は盲目《めくら》だから見るわけにはゆきません、推量してみると、かなりの広間に、かなりの人が集まって、琵琶を弾いている人は、その広間の真中にいることはわかります。だから自然、聞く人は皆その周囲に端坐したり、柱にもたれたり、障子や唐紙《からかみ》をうしろにしたりしているということがわかります。
 弁信が招ぜられたのは、例の道庵先生が控えているその次で、この際先生は謹聴しているのだか、それとも居眠りをしているのだか、ともかく、もっともらしく下を向いて控えていました。
 静かに道庵の次へ坐った弁信は、やはり前と同じように歌のない琵琶だけが、老練な人の手によって弾きこなされているのを耳にします。それを聞いていると、弾いている人の年頃もほぼ想像されます。決して若い人ではない、年齢においてもかなりの老練家であり、それで琵琶を弾く人であって、歌わない人だということもわかります。歌えないのではなく、歌う必要のない琵琶を弾くことを心得ているもののようです。弁信はそれをいっそう面白く思って、いよいよ席を構えて、ほんとうに身を入れて、しんみりと聞こうとした時に、室の中程から立ちのぼる異様な臭気に打たれました。
 勘の鋭いように、嗅覚《きゅうかく》もまた鋭敏であった弁信は、それほど好きな琵琶の音をさえ打忘れて、その立ちのぼる異様な臭気に心を取られました。
「おや」
 その時に琵琶の主《ぬし》が代りました。琵琶ばかり弾いて、あえて歌わなかった一曲はそれで終って、新たに代った人が同じところへ坐って、徐《おもむろ》に歌い出したのが「木崎原」の一段であります。席はいよいよ静粛なものになりました。
 薩摩の島津家にとっては「木崎原」の歌は大切な歌であります。藩主もこの木崎原を聞く時には端坐して、両手を膝の上へ置いて謹んで聞くのだそうです。それですから弾ずる人は無論のこと、ここに集まるすべての人が、みな相当の敬意を表して、いよいよ席が静粛なものになったのでしょう。
 ひとり、道庵先生のみは相も変らず、謹聴しているのか、居眠りをしているのか、わからない形で、尤もらしく下を向いて控えていることは前と同じです。見ようによっては、下を向いて時々|欠伸《あくび》を噛み殺しているようにも見えるところが、この先生の持って生れた人柄です。
 木崎原の琵琶歌は、島津家先祖の功業をうとうたもので、その初段の歌い出しはこういう文句であります。
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