えて酒を飲ましめば五百世までも手無からん、況《いわ》んや自ら飲まんをや、とございます。そのことを先生に申しますと、先生は、べらぼうめ、道庵が酒を飲んでいるから天下が泰平なんだ、道庵が酒をやめたら天下が乱れるから、それで人助けのために酒を飲んでいるのだと、こうおっしゃいますから、わたくしも二の矢がつげないのでございます。まあ、もう少しこちらでお待ち下さいまし、わたくしどもも実は茂太郎と二人で、まだ夕飯もいただかないでお待ち申しているところでございます。ナニ、もう御膳《ごぜん》は出来ておりますのですけれども、先生より先にいただいては済むまいと思いますから、二人ともにまだ夕飯を食べないでお待ち申しているところでございますが、いつお帰りになるかわかりませんから、これから、ちょっと用足しに出かけて参ろうとするところでございます、なにぶんよろしく」
お喋り坊主の弁信は、一息にこれだけのことを喋って、杖をついて道庵の屋敷を出かけました。
本所の相生町の老女の屋敷の中から、琵琶の音が洩れ聞えたのはその夕べのことです。
道を通る人は、わざわざ立ち止まってその音に耳を傾けるものもあります。聞き流して通り過ぎる人もあります。屋敷のうちにいる娘たちも、思いがけなくその音を聞いて、珍しがって耳を傾けました。その琵琶の音は、正銘の薩摩琵琶の音でありますけれども、聞く人は、何だかわからないと言っている人が多いようです。
外に立って聞いている人の評判を聞くと、はじめは三味線だろうと言いました。やがて三味線ではない、琴だと言い出すものもありました。琴でもないと打消す者もありました。琴の曲弾《きょくひ》きをしているのではないかと附け加えるものもあったけれども、これが琵琶だと断言したものは一人もありません。
「皆さん、御存じでもございましょうが、あれは薩摩の国で流行《はや》ります地神盲僧《ちじんもうそう》の琵琶のうちの、横琵琶というものでございます。どうして私がそれを知っているかと申しますと、私は平家琵琶を少しばかり心得ているのでございます。御承知の通り琵琶にもいろいろございまして、妙音の琵琶、平家の琵琶、荒神の琵琶、地神盲僧の琵琶……名はいろいろでございましても、源《もと》は一つでございます」
寄ってたかって聞いている連中は、思いがけないところから一人の小坊主が飛び出して、問われもしない説明をやり出したのに驚かされました。
お喋り坊主はひきつづき、海の中に漂う海月《くらげ》のように、小路《こうじ》の暗いところで法然頭《ほうねんあたま》を振り立てて、
「わたくしが琵琶を習いはじめにお師匠さんが、薩摩の琵琶はこうだと弾《ひ》いて聞かせてくれました、あの国では、おさむらいたちのうちに専ら琵琶が流行しまして、二本差して琵琶を背負って歩く人が多いそうでございます、それで薩摩の国の琵琶は、おさむらい風の勇ましいものでございます、私共が習いました平家琵琶とは、なかなか趣が異《ちが》ったものでございます、けれども源《もと》はみんな一つでございまして、やはり、薩摩の琵琶も地神盲僧から出たものでございますから、わたくしがこうして耳を傾けて聞いておりますると、なるほどと思い合わせることが多いのでございます。エ、地神盲僧とは何だとおっしゃるのですか、地神の地の字は、天地の地の字を書くのでございます、神は神様の神という字、盲僧の盲は盲目でございまして、僧は出家の僧でございます、地神というのは地の神様、盲僧というのは、私共みたような目の見えない坊主のことでございます」
お喋《しゃべ》り坊主がこう言った時に、人々ははじめて、この坊主は盲目《めくら》であったのかと思って、その面《おもて》を篤《とく》とのぞき込みました。のぞかれてもそれと知る由もない弁信法師は、聴衆が静まっていると見て、なおそのお喋りをつづけました。
「そもそもこの琵琶というものを始めましたのが、天竺《てんじく》の妙音天でございます。妙音天が琵琶をお始めになったのでございますが、この妙音天というお方も盲目であったそうでございます。それでございますから、この妙音天様が地神盲僧の守り本尊になっているのでございまして、私共も琵琶を弾《ひ》きまする時は、その妙音天様を本尊と致します。また一説と致しましては、お釈迦様のお弟子のなかに巌窟尊者《がんくつそんじゃ》という方がございました、この方が、やはり盲目でいらっしゃいました、ところで、お釈迦様がかわいそうに思召されて、お前は目が見えないでかわいそうである、その代り心眼を開くがよろしい、心眼を開いて悟りに入れば、なまじい眼の見えるために、五欲の煩悩《ぼんのう》に迷わされる人たちよりは遥かに幸福であるとお教えになりました、そこで巌窟尊者が一心に修行を致されまして、ついに心の眼を
前へ
次へ
全47ページ中28ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング