ません。
「え、何ですか、どなたか、わたしをお呼びになりましたか」
前に腰板へ立てかけておいた金剛杖を、再び手に取ろうとして盲法師は、また聞き耳を立てました。これがこの盲法師の癖かも知れません。誰も呼ぶ人はないのにまず自分の耳を疑わないで、あてもないところを咎め立てしてみるのは、今に始まったことではありませんでした。金剛杖は手に持ったけれども、やはりその場は動かないで、怪しげな頭を振り立てて、前後左右の気配をみているようです。
しかしながら、ここは前と違って、あたりに大木もなければ人家もありません。往来の山道よりは少し離れて高く突き出したところですから、わざわざでなければ、この夕暮に人が上って来ようとは思われないところです。
それにもかかわらず、盲法師はその人を見つけたかのように、いったん手に取った金剛杖をまたもとのところへさしかけて、
「どう致しまして、これは、わたしから御前《ごぜん》にお願いして、強《た》ってやらせていただく役目なんでございます、決して言いつけられてやっているお役目ではございません。わたしですか、今年十七になりました、エエ、このお山へ参ったのが日蓮上人と同じことの十二歳でございました。こんなに眼の不自由になったのはいつからだとおっしゃるんですか。それは、つい近頃のことですよ。もっとも小さい時分から眼のたち[#「たち」に傍点]はあまりよくはございませんでしたがね、この春あたりからめっきり悪くなりました、桜の花の咲く時分に、ポーッとわたしの眼の前へ霞《かすみ》がかかりましたよ、その霞が一時取れましたがね、秋のはじめになると、またかぶさって参りましたよ、今度は霞でなくて霧なんでしょうよ、その霧がだんだんに下りて来て、今では、すっかり見えなくなりました。へえ、そりゃ随分悲しい思いをしましたよ、心細い思いをしましたよ。けれども泣いたって喚《わめ》いたって仕方がありませんね、前世の業《ごう》というのが、これなんです、つまり無明長夜《むみょうちょうや》の闇に迷う身なんでございますね。その罪ほろぼしのために、こうやって毎晩、この燈籠を点けさせていただく役目を、わたしが志願を致しました、自分の眼が暗くなった罪ほろぼしに、他様《ひとさま》の眼を明るくして上げたいというわたしの心ばかりの功徳《くどく》のつもりでございますよ。ナニ、雨が降ったって風が吹いたって、そんなことは苦になりませんよ、毎晩こうやってお燈明《とうみょう》をつけに行く心持と、高燈籠へ火をうつして油がぼーと燃える音、それから勤めを果して、こうしてまた帰って来る心持と、それが何とも言えませんね……雨風といえば、近いうちに大暴風雨《おおあらし》があるって、あの茂太郎がそう言いました、大暴風雨のある前には、蛇が沢山《どっさり》樹の上へのぼるんだそうですがね、本当でしょうか知ら、まあ、お気をつけなさいまし」
誰も相手が無いのに、盲法師はこう言ってから、金剛杖を取り上げてそろそろ歩き出しました。
三
けれども、その夜から翌日へかけては、べつだん雨風の模様は見えませんでした。三日目になって朝から曇りはじめたといえば曇りはじめた分のことで、これまた急には雨風を呼ぼうとも思えません。江戸の方面とても無論それと同じ気圧に支配されているのですから、その日の亥《い》の刻《こく》に江戸橋を立つ木更津船《きさらづぶね》は、あえて日和《ひより》を見直す必要もなく、若干の荷物と二十余人の便乗の客を乗せて、碇《いかり》を揚げようとする時分に、端舟《はしけ》の船頭が二人の客を乗せて、大童《おおわらわ》で漕ぎつけました。
その二人の客の一人は、どうも見たことのあるような年増の女です。つとめて眼に立たないようにはしているけれど、こうして男ばかりの乗客の中へ、息をはずませて乗り込んでみると、誰もその脂《あぶら》の乗った年増盛《としまざか》りに眼を惹《ひ》かれないわけにはゆかないようです。この女は、両国橋の女軽業の親方のお角であります。
「庄さん、それでもよかったね、もう一足|後《おく》れると乗れなかったんだわ」
「いいあんばいでございましたよ」
お伴《とも》であるらしい若い男は、歯切れのよい返事をして、
「皆さん、少々御免下さいまし、おい、小僧さん、ここへ敷物を二枚くんな。親方、これへお坐りなさいまし、ここが荷物の蔭になってよろしうございます」
船頭の子から敷物を二枚借り受けて、酒樽の蔭のほどよいところへ、それを敷きました。帆柱の下にあたる最上の席は、もう先客に占められているのだから、まあ、この若い者が見つくろったあたりが、今では恰好《かっこう》のところであろうと思われます。
お角は遠慮をせずにその席へつくと、若い者がその傍へ、両がけの荷物を下ろして、どっかと坐り
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