大菩薩峠
安房の国の巻
中里介山

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)安房《あわ》の国

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)大宗匠|菱川師宣《ひしかわもろのぶ》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号)
(例)※[#「口+奄」、第3水準1−15−6]
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         一

 この巻は安房《あわ》の国から始めます。御承知の通り、この国はあまり大きな国ではありません。
 信濃、越後等の八百方里内外の面積を有する、それと並び立つ時には、僅かに三十五方里を有するに過ぎないこの国は哀れなものであります。むしろその小さな方から言って、壱岐《いき》の国の八方里半というのを筆頭に、隠岐《おき》の国が二十一方里、和泉《いずみ》の国が三十三方里という計算を間違いのないものとすれば、第四番目に位する小国がすなわちこの安房の国であります。
 小さい方から四番目の安房の国。そこにはまた小さいものに比例して雪をいただく高山もなく、大風の動く広野もないことは不思議ではありません。源を嶺岡《みねおか》の山中に発し、東に流れて外洋に注ぐ加茂川がまさにこの国第一の大河であって――その源から河口までの長さが実に五里ということは、何となく滑稽の感を起すくらいのものであります。
 さればにや、昔の物の本にも、この国には鯉が棲《す》まないと書いてありました。鯉は魚中の霊あるものですから、一国十郡以下の小国には棲まないのだそうです。そうしてみれば一国四郡(今は一国一郡)の安房の国に、魚中の霊魚が来り棲まないということも不思議ではありますまい。
 こうして今更、安房の小さいことを並べ立てるのは、背の低い人をわざと人中へ引張り出してその身《み》の丈《たけ》を測って見せるような心なき仕業《しわざ》に似ておりますが、安房の国の人よ、それを憤《いきどお》り給うな。近世浮世絵の大宗匠|菱川師宣《ひしかわもろのぶ》は、諸君のその三十五方里の間から生れました。源頼朝が石橋山の合戦に武運|拙《つたな》く身を以て逃れて、諸君の国に頼って来た時に、諸君の先祖は、それを温かい心で迎え育てて、ついに日本の政権史を二分するような大業を起させたではありませんか。それからまた、形においてはこの大菩薩峠と兄弟分に当る里見八犬伝は、その発祥地を諸君の領内の富山《とやま》に求めているし、それよりもこれよりもまた、諸君のために嬉し泣きに泣いて起つべきほどのことは、日蓮上人がやはり諸君の三十五方里の中から涌《わ》いて出でたことであります。
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「日蓮は日本国東夷東条、安房の国海辺の旃陀羅《せんだら》が子なり。いたづらに朽《く》ちん身を法華経の御故《おんゆゑ》に捨てまゐらせん事、あに石を金《こがね》にかふるにあらずや」
[#ここで字下げ終わり]
 日蓮自ら刻みつけた銘の光は、朝な朝な東海の上にのぼる日輪の光と同じように、永遠にかがやくものでありましょう。
 その日蓮上人は小湊《こみなと》の浜辺に生れて、十二歳の時に、同じ国、同じ郡の清澄《きよすみ》の山に登らせられてそこで出家を遂げました。それは昔のことで、この時分は例の尊王攘夷《そんのうじょうい》の時であります。西の方から吹き荒れて来る風が強く、東の方の都では、今や屋台骨を吹き折られそうに気を揉《も》んでいる世の中でありましたけれど、清澄の山の空気は清く澄んでおりました。九月十三日のお祭りには、房総二州を東西に分けて、我と思わんものの素人相撲《しろうとずもう》があって、山上は人で埋まりましたけれど、それは三日前に済んで、あとかたづけも大方終ってみると、ひときわひっそり[#「ひっそり」に傍点]したものであります。
 周囲四丈八尺ある門前の巨杉《おおすぎ》の下には、お祭りの名残りの塵芥《じんかい》や落葉が堆《うずたか》く掻き集められて、誰が火をつけたか、火焔《ほのお》は揚らずに、浅黄色した煙のみが濛々《もうもう》として、杉の梢の間に立ち迷うて西へ流れています。その煙が夕靄《ゆうもや》と溶け合って峰や谷をうずめ終る頃に、千光山金剛法院の暮の鐘が鳴りました。
 明徳三年の銘あるこの鐘、たしか方広寺の鐘銘より以前に「国家安康」の文字が刻んであったはずの鐘、それが物静かに鳴り出しました。その鐘の声の中から生れて来たもののように、一人の若い僧侶が、山門の石段を踏んでトボトボと歩き出しました。
 身の丈に二尺も余るほどの金剛杖を右の手について、左の手にさげた青銅《からかね》の釣燈籠《つりどうろう》が半ば法衣《ころも》の袖に隠れて、その裏から洩れる白い光が、白蓮の花びらを散らしながら歩いているようです。
 身体《からだ》はこうして人並
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