込みました。
「なんだか天気がちっとばかりおかしいけれど、明日の朝の巳《み》の半《はん》ごろには木更津へ着くって言いますから、案じるがものはありますまいねえ」
 若い者が空を仰ぐと、お角も空模様を見て、
「降りはすまいけれど、なんだか、いやに蒸すようじゃないか」
 程経てこの船が海へ乗り出した時分に、帆柱が押立てられて、帆がキリキリと捲き上げられると、船は遽《にわか》に勢いを得て、さながら尾鰭《おひれ》を添えたようであります。乗合の人も、大海へ出た心持になりました。そこへ船頭が立ちはだかって、乗合の客の頭数を読み上げて、
「ちょっとお待ちなさいよ、乗合の衆はみんなでエート二十三人でござんすね、二十三人、間違いはございませんね」
 駄目を押すと乗合の客は、いずれも面《かお》を見合せて黙っています。そこで船頭はもう一ぺん乗合の頭の上を見渡して、
「それで、女のお客さんは……エート、おかみさんお一人ですね、女のお客さんは一人しか無《ね》えんでございますかね」
と言って船頭は、例のお角の面をじっと見つめています。
「ええ、わたし一人のようですよ」
 お角はわるびれずに答えました。
「そうですか、それじゃあ、どうかこっちの方へおいでなすって下さいまし、その帆柱の下においでなさるお年寄のお方、済みませんがそこんところのお席を、このおかみさんに譲って上げておくんなさいまし」
「え、ここをどうするんだね」
「済みませんがね、船のオキテですからね、女の方が一人客の時には、その方に上座を張らして上げなくっちゃならねえんです、それというのは船は女ですからね、腹を上にして物を載せるから、女にかたどってあるんでござんさあ、だから船玉様《ふなだまさま》も女の神様でござんさあ、女のお客がよけいお乗りなすった時は、そうもいかねえが、一人っきりの時は、その女のお客様を上座へ据えて船玉様のお側《そば》にいていただくんでさあ、船に乗った時だけは野郎の幅が利《き》かねえんだから、ふしょうしておくんなせえな」
 こう言われると年寄のお客、それは深川の炭問屋の主人だというのが納得《なっとく》して、
「なるほど、そういうわけでしたか。そういうわけならば、さあ、おかみさん、こちらへおいで下さい、若い衆さんもここへおいでなさいましよ」
 快く席を譲ってくれました。その因由《いわれ》を聞いてみるとお角も、強《し》いてそれを遠慮するような女ではありません。
「まあ、ほんとにお気の毒に存じます、では、船のえんぎでございますから、あとから参りまして、女のくせにお高いところで御免を蒙《こうむ》ります。庄さん、お前もそれでは御免を蒙ってここへ坐らせていただいたらいいでしょう」
 こんなわけで、座席の入れ替えが無事に済みました。お角はこの船の中で、神様から二番目の人にされてしまいました。
 まもなくお角は、その隣席にいる例の深川の炭問屋の主人と好い話敵《はなしがたき》になりました。
「どちらへいらっしゃいますね」
 炭問屋の主人がまずこう言って尋ねると、お角がそれに答えて、
「はい、木更津から那古《なこ》の観音様へ参詣を致し、ことによったら館山《たてやま》まで参ろうと思うんでございます」
「ごゆさんでございますかね」
「そういうわけでもございません、少しばかり尋ねたい人がありまして」
「ははあ、なるほど」
 炭問屋の主人は腮《あご》を撫でて、ははあなるほどと言いましたけれども、それは別に見当をつけて言ったわけではありません。本来この女が今時分、房州あたりまでゆさんに出かけるはずの女子《おなご》でもないし、また、そちらの方に尋ねる人があってという言い分も、なんだかお座なりのように聞えます。と言って、今日はいつぞや甲州まで、がんりき[#「がんりき」に傍点]の百を追いかけて行ったような血眼《ちまなこ》でもなく、お供をつれておちつき払って構えているのは、何か相当のあたり[#「あたり」に傍点]がなければならないはずです。すでに相当のあたり[#「あたり」に傍点]があって出かける以上は、転んでも只は起きない女だから、何か一やま[#「やま」に傍点]当てて来るつもりなのでしょう。炭問屋の主人は、そこまで詮索《せんさく》してみようという気はありませんから、いつしか自分の案内知った房州話になってしまいました。
 那古へ行くならば鋸山《のこぎりやま》の日本寺《にほんじ》へも参詣をするがよいとか、館山あたりへ行ってはどこの旅籠《はたご》が親切で、土地の人気はこうだというようなことを、お角に向って細かに案内をしてくれるのであります。お角がそれを有難く聞いていると、ほかの乗合までが、それぞれ口を出して、炭問屋の主人の案内の足らざるを補うものもあるし、また突込んで質問をはじめる者も出て来ました。はじめはお角と炭問屋の主人
前へ 次へ
全52ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング