、隆々《りゅうりゅう》たる威勢で乗り込んだ駒井能登守その人を、こんな方角ちがいの辺鄙《へんぴ》なところで、こうしてお目にかかろうということは、夢に夢見るようなものです。
 あの凜々《りり》しい、水の垂《したた》るような若い殿様ぶりが、今は頭の髪から着物に至るまで、まるで打って変って異人のような姿になり、その上に昔は、仮りにも一国一城を預かるほどの格式であったが、今は、見るところ、あの清吉という男を、たった一人召使っているだけであるらしい。その一人の男の姿が見えなくなると、御自分が提灯をさげて探しに出て行かねばならないような、今の御有様は、思いやると、おいとしいような心持に堪えられない。
 このお住居《すまい》とても、決して三千石の殿様の御別荘とは受取れない。ほんの仮小屋のようなものとしかお見受け申すことはできない。僅かの間に、どうしてこうも落魄《おちぶ》れなさったのだろう。お角は、そのことを考えると、ふいに頭に浮んで来たのは、同じく甲州城内に重き役目をつとめていた神尾主膳のことであります。
 駒井能登守様が、甲州城をお引上げになると、まもなく神尾の殿様も江戸へお引取りになった。神尾へはその前後に亘ってお角は始終出入りをしている。それで酔った時などに甲州話が出ると、神尾主膳は、きっと駒井能登守の悪口《あっこう》をする。その悪口が、いかにも意地悪く、ざま[#「ざま」に傍点]を見ろと言わぬばかりなので、お角はそれを聞くと、なんとなくイヤになるのでした。
 神尾主膳については、お角とても決して善良な人だとは信じていないけれど、あれでなかなか話せば話のわかる人だと思っている。あの人を箸にも棒にもかからぬように言うのは、それは、あの人を噛締《かみし》めていないからで、その悪いところだけを避けて、良いところを附き合えば、ずいぶん力になる人であると思っている。けれども、その神尾が、ひとたび駒井能登守の噂《うわさ》になると、酔っているとは言いながら、口を極めて悪く言うことが、お角には不服でもあり、不快でもあるのであります。
 何となれば、駒木野の関所以来、お角の眼にうつっている駒井能登守は、男ぶりといい、その情けある仕方といい、若くして人に長たるの器量といい、芝居の中で見る人のように見えるのであります。どこといって一点でも、難を入れるところのない殿様ぶりに見えるのであります。その学問や見識のことは、お角はまるきり見当がつかないけれども、あんな男らしい男ぶりの殿御を、前にも後にも見たことはないとまで思っているのでありました。
 それを神尾主膳が、頭ごなしにするからその時は不服で、つい抗弁をしてみる気になると、神尾はいやみな笑い方をしながら、
「お前も存外|人形食《にんぎょうく》いだ、あんなのが、それほどお気に召すようでは甘いものだ」
なんぞと言われると、お角もムキになって、
「人形食い結構、あんな方に好かれたら、ほんとにわたしは、三年連れ添う御亭主を打棄《うっちゃ》っても行きますわ、けれどもお気の毒さま、あちら様で、わたしなんぞは眼中にないのですからね」
というようなことを言ったこともありました。
 それは冗談《じょうだん》にしても、神尾と駒井との間に、何かの蟠《わだかま》りのあることは疾《と》うに見て取らないわけはありません。その後、神尾へは相変らず親しく出入りしているに拘らず、能登守の方は、ほとんど消息も打絶えて、滅多に思い出すことさえなかったのが、今日、このところで偶然、こんなにお世話になることは、やっぱり何かのお引合せと見ないわけにはゆかないのであります。
 お角は、それを思うと、なんだか嬉しいような心持になって、清吉の見えなくなったことよりは、早く甚三郎が帰って来てくれることのみが待たれるのであります。このままでお帰りを迎えては恐れ多いというような心から、床を起き直って、乱れた髪などを撫で上げました。二時間ほどして駒井甚三郎はかえって来ましたから、お角は、
「おわかりになりましたか」
「わからん」
 甚三郎は、安からぬ色を深くしていました。
「まあ、どうなすったのでしょう」
「そなたを得たことも不思議だが、清吉を失ったことも不思議だ」
 甚三郎がこう言った言葉のうちには、多少の絶望が含まれているようです。
「海の方へでも行ったのでしょうか」
「どのみち、海へ行ったのであろうけれど……」
「お怪我がなければようござんすね、この辺の海は荒いそうですから」
「今宵は、もう諦《あきら》めて、明朝早く探しに行こう。それから、夜中《やちゅう》何ぞ急用でも起った時は、その柱の下にある小さなボタンを、三ツばかり押してみるがよい、それが拙者の枕許まで響いて来る。拙者の方でも、何か用事の起った時は、同じような仕掛で、この丸いものが鳴り出すようにしてあるから
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