」
これはおたがいの部屋に通ずる電気仕掛のベルでありました。駒井自身の工夫と設計にかかるものであることは申すまでもありますまい。これを押せばむこうのお居間の鈴が鳴るということが、お角にはなんだか魔術のように思われます。けれども、甚三郎はそれだけの注意を与えたきりで、この小屋とは棟を別にしている番所の内の、己《おの》れの居間へ帰って行きました。
もし明朝になっても、明日になっても、清吉の行方《ゆくえ》がわからなかったらどうでしょう。またもし、お角の身体がほんとうに回復したのならよいけれど、これが一時の元気であって、明日からまたぶり[#「ぶり」に傍点]返して枕が上らないようになったらどうでしょう。
いったん、捨てられた洲崎の遠見の番所は、まるで孤島の中にあるようなものです。前方は海で、陸続きは近寄る人もありません。
駒井甚三郎と、清吉とは、特にここをえらんで、たった二人きりで無人島同様の生活を好んで、ここに送っていたものと見えます。それがその共同生活の唯一人を失ったとすれば、あとに残るのは駒井甚三郎一人です。更にまた一人を加えたところで、その一人が枕も上らぬ病人であるなれば、その看病人も駒井甚三郎でなければなりません。
三千石の殿様に、自分の看病をさせることが女冥利《おんなみょうり》に尽きると思うなれば、お角は、どうしても明日から起きて働かねばならないのです。
その翌日、早朝から駒井甚三郎は、またもこの番所を立ち出でました。けれども、お正午《ひる》少し前に帰って来た時には、出て行った時と同じことに、たった一人でした。ついにその尋ぬる人を探し当てることができないで、悄然《しょうぜん》として番所の門を潜りました。しかし、それと打って変ったように元気になったのはお角です。甚三郎が帰って来た時には、もう起き上って、甲斐甲斐しく働いていました。多分、海へ張って置いた網を引き出しに行って、浪に捲き込まれて行方不明になったものだろうと甚三郎は推察して、それをお角に話し、一方に浪に打上げられた人を救い、一方に浪に捲かれて人を失うのは、偶然とは言いながら、この辺の海は魔物のようであるということを、つくづく歎息しました。
お角は、それを聞いて気の毒がって泣きました。
その日から、ここにまた変った二人の生活が始まりました。二人というその一人の主は、変らぬ駒井甚三郎ですけれども、それを助けるは男でなくて女です。
「というても、そなたは江戸へ帰らねばならぬ人」
甚三郎に言われた時、
「いいえ、もう帰らなくってもよろしうございますよ」
お角は、きっぱりとこう言いました。ナゼこんなに、きっぱりと言い得るだろうかということが不思議でした。何かの当りがあればこそ、ああして房州へ出て来たのだから、その当りは途中の災難で外れたにしても、この女が江戸へ帰らなくてよいという理由はなかりそうです。江戸でなければこの女の仕事はありそうにもなし、またとにもかくにも、がんりき[#「がんりき」に傍点]の百といったような男を江戸には残して来てあるはずです。
けれども、駒井甚三郎は、それをよいとも悪いとも言いませんでした。
お角の料理してくれた昼飯を食べてから、また海岸へ出かけて、どこで何をしていたのか、夕方になって帰って来ました。
そうして番小屋の炉の傍で、お角の給仕で夕飯を食べながら話をしました。清吉のことは、もう諦めてしまっているようです。その話のうちに、甲州話がありました。けれども、その甲州話も、政治向のことや勤番諸士の噂などは、おくびにも出ないで、甲州では魚を食べられないとか、富士の山がよく見えるとか、甲斐絹《かいき》が安く買えるとか、そんな他愛のないことばかりでしたからお角は、この殿様がどうしてかの立派な御身分から今のように、おなりあそばしたかということを尋ねてみる隙《すき》がありませんでした。
それから、お角の身の上を徐《おもむ》ろに甚三郎が詮索《せんさく》を始めました。詮索というと角が立つけれど、実はそれからそれと穏かに尋ねられるので、お角も、つい繕《つくろ》い切れなくなって、女軽業《おんなかるわざ》の一座を引連れて、甲府の一蓮寺で興行したことから、このごろ再び両国で旗上げをするために、実はこの房州の芳浜というところに珍しい子供がいるそうだから、それを買いに来て、途中この災難ということを、すっかりと甚三郎に打明けてしまいました。打明けねばならぬように話しかけられてしまって、打明けてから、つい悔ゆるような心持になりましたけれど、甚三郎は一向、そんなことを念頭に置かぬらしく、
「それは面白い仕事であろう、拙者はまだ軽業というものを見たことがない」
「お恥かしうございます」
さすがのお角も、なんだか赤くなるように思いました。
話が済むと甚三郎は
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