の病人が寝ているのでした。
その病人の枕許《まくらもと》へ提灯を突きつけた駒井甚三郎は、
「眠っておいでかな」
低い声で呼んでみました。
「はい」
微かに結んでいた夢を破られて、向き直ったのは女です。かのいたずら[#「いたずら」に傍点]な平沙の浦の磯から拾って来た女であります。
「気分はよろしいか」
甚三郎は提灯を下へ置いて、蝋燭を丁寧に抜き取って、それを手近な燭台の上に立てながら、女の容体《ようだい》をうかがうと、
「ええ、もうよろしうございます、もう大丈夫でございます」
はっきりした返事をして、女は駒井甚三郎の姿を見上げました。
「なるほど、その調子なら、もう心配はない」
甚三郎もまた、女の声と血色とを蝋燭の光で見比べるように、燭台をなお手近く引き出して来ると、
「もし、あなた様は……」
急に昂奮した女の言葉で驚かされました。
「ええ、なに?」
甚三郎が、屹《きっ》と女の面《おもて》を見直すと、
「まあ勿体《もったい》ない、あなた様は、甲府の御勤番支配の殿様ではいらっしゃいませんか」
女は床の上から起き直ろうとしますのを、
「まあまあ静かに。甲府の勤番の支配とやらの、それがどうしたの」
甚三郎は、女の昂奮をなだめようとします。
駒井甚三郎は、ここでこの女から、己《おの》れの前身を聞かされようとは思いませんでした。女をなだめながら、もしやとその面《おもて》を熟視しましたけれども、どうも心当りのある女とは受取ることができません。
「わたくしは、あの時から殿様のお姿を決して忘れは致しません」
女は何かに感激しているらしい声でこう言いましたから、甚三郎は、
「あの時とは?」
「それはあの、甲州へ参ります小仏峠の下の、駒木野のお関所で……」
「ははあ、なるほど」
ここにおいて駒井甚三郎は、さることもありけりと思い当りました。そうそう、初めて甲州入りの時、一人の女が血眼《ちまなこ》になって、手形なしに関所を抜けようとして関所役人に食い留められた時、駒井能登守の情けある計らいで、わざと目的地の方の木戸へ追い出させたことがある。それだ、その女だなと思いましたから、
「拙者はトンとお見忘れをしていた。そなたは、あれから無事に、尋ねる人を探し当てましたか」
「はい、おかげさまで……かなり長い間、甲州におりました。その間も、よそながら殿様のお姿をお見かけ申しました。一度、お訪ね申し上げて、あの時のお礼を申し上げたいと思わないではありませんでしたが、何を言うにもこの通りの賤《いや》しい女、恐れ多い気が先に立つばかりで、ついつい御無沙汰を致してしまいました」
「それを承ってみると、縁というものは不思議なものじゃ。拙者も今は、こんなふうに変っているが、そなたはまたどうして、あのような目に遭われた」
「それをお話し申し上げると長いのでございますが、この房州の芳浜というところまで、人を雇いに参ったのでございます、その途中、舟が暴風雨《あらし》に遭いまして、わたしが、いちばんヒドい目に遭わされるところでしたが、そのヒドい目に遭わされようとしたわたくしだけが助かって、こうして殿様のお世話になっているのかと思うと、ほんとに何かのお引合せのように思われてなりません」
「しかし、よく助かったものじゃ、拙者も自分ながら不思議に堪えられない」
「今朝になりまして、清吉さんから、わたくしをお助け下された委細のお話をお聞きしまして、わたしは、ほんとうに神様に守られているんじゃないかと、勿体《もったい》なくて、涙がこぼれてしまいました」
「ところで、その清吉が見えないが……何とかいうて出て行きましたか」
「いいえ、お正午《ひる》少し前までここにお見えになりましたが、それから、わたくしは今まで眠っておりました故、何も存じませぬ」
「はて……」
甚三郎は、いよいよ清吉のことが不安になってきました。
そうして、次の一本の蝋燭に火をうつして、それをまた提灯に入れ、
「淋しかろうが、そなたは一人で、暫らくここに留守している気で待っていてくれるように。拙者はこれから清吉を捜《さが》して参る」
「まあ、ほんとにあのお方はどちらへおいでになったのでしょう……いえ、もうわたしも起きられます、どうぞ、お心置きなく。どんなところにおりましても、淋しいなんぞと決して思いは致しません。歩けさえ致せば、わたしもお伴《とも》を致すのですけれど」
「ちょっと、その辺の様子を見て、ことによると碇場《いかりば》まで行って来る、その間に、もし清吉が帰ったならば、そのように申してくれるよう」
「畏《かしこ》まりました」
甚三郎は病人のお角にあとを頼んで、提灯をつけて外へ立ち出でました。
駒井甚三郎が出て行ったあとのお角には、夢のように思われてなりません。
甲州城の勤番支配として
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