台ぐるみ手に取り上げた駒井甚三郎は、さっと窓の戸を押し開きました。窓の戸を開くと眼の下は海です。この洲崎の鼻から見ると、二つの海を見ることができます。そうして時とすると、その二つの海が千変万化するのを見ることもできます。二つの海というのは、内の海と外の洋《うみ》とであります。内の海とは、今でいう東京湾のことで、それは、この洲崎と、相対する相州の三浦三崎とが外門を固めて、浪を穏かにして船を安くするのそれであります。外の洋《うみ》というのは、亜米利加《アメリカ》までつづく太平洋のことであります。ここの遠見の番所は、この二つの海を二頭立ての馬のように御《ぎょ》してながめることのできる、絶好地点をえらんで立てられたものと見えます。
甚三郎が蝋燭を片手に眺めているのは、その外の方の海でありました。内の海は穏かであるが、外の海は荒い。ことに、外房にかかる洲崎あたりの浪は、単に荒いのみならず、また頗《すこぶ》る皮肉であります。船を捲き込んで沈めようとしないで、弄《もてあそ》ぼうとする癖があります。来《きた》ろうとするものを誘《おび》き込んで、それを活かさず殺さず、宙に迷わせて楽しむという癖もあります。試みに風|凪《な》ぎたる日、巌《いわ》の上に佇《たたず》んで遠く外洋《そとうみ》の方をながむる人は、物凄き一条の潮《うしお》が渦巻き流れて、伊豆の方へ向って走るのを見ることができましょう。その潮は伊豆まで行って消えるものだそうだが、果してどこまで行って消えるのやら、漁師はその一条の波を「潮《しお》の路」といって怖れます。
外の洋《うみ》で非業《ひごう》の最期《さいご》を遂げた幾多の亡霊が、この世の人に会いたさに、遥々《はるばる》の波路をたどってここまで来ると、右の「潮の路」が行手を遮って、ここより内へは一寸も入れないのだそうです。さりとてまた元の大洋へ帰すこともしないのだそうです。その意地悪い抑留を蒙った亡霊どもは、この洲崎のほとりに集まって、昼は消えつつ、夜は燃え出して、港へ帰る船でも見つけようものならば、恨めしい声を出してそれを呼び留めるから、海に慣れた船頭漁師も怖毛《おぞけ》をふるって、一斉に艪《ろ》を急がせて逃げて帰るということです。
こんな性質《たち》の悪い洲崎下の外洋を見渡して、やや左へ廻ると、それが平沙《ひらさ》の浦になります。
「平沙の浦はいたずら[#「いたずら」に傍点]者だ」と、おととい駒井甚三郎がそう言いました。
平沙の浦も、その皮肉なことにおいては相譲らないが、それは洲崎の海ほどに荒いことはなく、かえって一種の茶気を帯びていることが、愛嬌といえば愛嬌です。
平沙の浦がするいたずら[#「いたずら」に傍点]のうちの第一は、舟を岸へ持って来ることです。ほかの海では、船を捲き込んだり、誘《おび》き寄せたり、突き放したり、押し出したりして興がるのに、この平沙の海は、ずんずんと舟を岸へ持って来てしまいます。岸へ持って来て、いわに打ちつけるような手荒い振舞をせずに、砂の上へ、そっと置いて行ってしまいます。
このおてやわらかないたずら[#「いたずら」に傍点]は、幸いに船と人命をいためることはありませんが、船と人をてこず[#「てこず」に傍点]らせることにおいては、いっそ一思いに打ち壊してしまうものより、遥かに以上であります。
平沙の浦の海へ入って見ると、下には恐ろしい暗礁が幾つもあって、海面は晴天の日にも、大きなうねりがのた[#「のた」に傍点]打ち廻っている。漁師たちはそのうねりを「お見舞」と称《とな》えて、怖れています。いい天気だと思って、安心して舟を遊ばせていると、いつのまにか、この「お見舞」がもくもくと舟を打ち上げて来ます。その時はもう遅い。舟は大きなうねりに乗せられて、岸へ岸へと運ばれてしまう。帆はダラリと垂れてしまって、舵《かじ》はどう操《あやつ》っても利かない。そうしているうちに舟と人とは、砂の上へ持って来て、そっと置いて行かれてしまいます。
そのいたずら[#「いたずら」に傍点]な平沙の浦の海をながめていた駒井甚三郎は、ふいと気がついて、
「そうだそうだ、あの婦人はどうしたろう、今日はまだ見舞もしなかったが、清吉がいないとすれば、誰も看病の仕手は無いだろう、燈火《あかり》もついてはいないようだし」
と呟《つぶや》いて窓を締め、蝋燭を手に持ったままで、壁にかけてあった提灯《ちょうちん》を取り下ろしてその蝋燭を入れ、部屋を出て縁側から下駄を穿《は》いて番小屋の方へ歩いて行きました。小屋の戸を難なくあけて見ると、中は真暗で、まだ戸も締めてないから、障子だけが薄ら明るく見えます。
「清吉は居らんな」
甚三郎は駄目を押しながら、その提灯を持って座敷へ上ると、そこは六畳の一間です。その六畳一間の燈火もない真暗な片隅に、一人
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