おっと、待っておくれ、待っておくれ、人身御供《ひとみごくう》というのはそのことかね、つまり、わたしにその大昔の橘姫の命様とやらの真似をしろとおっしゃるんだね」
「それよりほかには、この難場《なんば》を逃れる道がねえのだから、お前さんにはお気の毒だが、乗合の衆のためだ。ねえ、皆さん、この船頭の言うことが不条理かエ」
「…………」
「ここで人身御供が上らなけりゃあ、みすみす三十何人の乗合が残らず鱶《ふか》の餌食《えじき》になってしまうのだ、それでようござんすかエ」
船頭はこう言って、乗合の者の頭の上をずらりと見渡したけれど、誰あってこれに返答する間もなく、お角は猛《たけ》り立ちました。
「ふざけちゃいけないよ、やい、ふざけやがるない、こんな暴風《しけ》が起ったのは時の災難だよ、なにもわたしが船に乗ったから、それで暴風が起ったんじゃないや。船に女が一人乗り合せたのがどうしたんだい、はじめのうちは船は女の物だの、正座を張れのと、さんざん人を煽《おだ》てておいて、この暴風雨《あらし》になると、みんなわたしにかずけて、人身御供《ひとみごくう》に海へ沈んでくれとはよく出来た。そりゃ昔の橘姫というお方と、わたしたちとはお人柄が違わあ、第一、この中に日本武尊様ほどのお方がいらっしゃるならお目にかかろうじゃないか、みんな自分たちの命が助かりたいから、それで、わたし一人を人身御供に上げようと言うんだろう、虫のいい話さ、ばかにしてやがら。雑魚《ざこ》の餌食になろうとも、我利我利亡者《がりがりもうじゃ》の手前たちの身代りになって沈めにかかるような、そんなお安いお角さんじゃないよ。死なばもろともさ、乗合が一人残らず一緒に行くんでなけりゃ、冥途《めいど》の道が淋しくってたまらないよ」
「おかみさん、もうこうなりゃ、ジタバタしたって仕方がねえ」
船頭は猿臂《えんぴ》を伸べて、お角の二の腕をムズと掴《つか》みます。
「おや、わたしを掴まえてどうしようというの」
お角は、船頭に掴まった二の腕を烈しく振りほどいて、血相を変えると、
「野郎、おかみさんをどうしようと言うんだ」
附添の若い男が、お角を掩護《えんご》するつもりで、船頭に武者ぶりついたけれど、腰が定まらないのに船頭の一突きで、無残に突き飛ばされて起き上ることができません。
船頭に掴まった二の腕を烈しく振りほどいたお角は、そのまま荷物と人の頭とを跳り越えて外へ飛び出しました。
この時分、甲板へ飛び出すことの危険は、人身御供になることの危険と同じようなものであることはわかっているけれど、この女はそれを危ぶんでいるほどの余裕がなかったものらしくあります。
若い男を突き飛ばしておいた船頭は、腰に差していた斧を無意識に抜き取って、右の手に引提《ひっさ》げたまま、透かさずお角の後を追蒐《おっか》けました。
乗合全体は総立ちになる途端に、大揺れに揺れた船が何かに触れて、轟然《ごうぜん》たる音がすると、そのはずみで残らず、※[#「てへん+堂」、第4水準2−13−41]《どう》とぶっ倒されてしまいました。
「わーっ、水、水、水が……」
そこで名状すべからざる混乱が起って、残らずの人が七顛八倒《しちてんばっとう》です。七顛八倒しながら、かの上り口のところへ押しかけて、前にお角と船頭とがしたように、先を争うて甲板の上へ走り出そうとして、押し合い、へし合い、蹴飛ばされ、踏み倒され、泣き喚《わめ》いて狂い廻ります。船の外は真暗な天地に、囂々《ごうごう》と吼《ほ》ゆる風と波とばかりです。船は木の葉のように弄《もてあそ》ばれて、すでに振り飛ばすべきものの限りは振り飛ばしてしまいました。綱を増した碇《いかり》も引断《ひっき》られてしまい、唯一の帆柱でさえも、目通りのあたりから切り折られてしまった坊主船は、真黒な海の中で、跳ね上げられたり、打ち落されたり、右左にいいように揉み立てられ、散々《さんざん》に翻弄されて、それでもなお残忍な波濤の間に、残骸を見せつ隠しつしている有様です。
尋常では腰の定まるべくもないこの場合の甲板の上を、転びもせずに、吹き荒れる雨風をうまく調子を取って、ひらりひらりと物につかまりながら走って来るのは、むかし取った杵柄《きねづか》ではなく、むかし鍛えた軽業の身のこなしでもあろうけれど、この女の勝気がいちずに、不人情を極めた手前勝手な船頭の手から逃れて、これに反抗を試みようとして、思慮も分別も不覚にさせてしまったものと見るほかはありません。
片手に斧を引提げて、こけつまろびつ、それを後ろから追いかける船頭とても、本来が決してさほどに、不人情でも、手前勝手でもあるわけではなく、ただ危険が間髪《かんはつ》に迫った途端に、その日ごろ持っている海の迷信が逆上的に働いて、こうせねば船のすべてが助からぬ、こ
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