うすれば必ず助かるものだと思い込ませたその魔力がさせる業《わざ》でありましょう。
 けれども、つづいて先を争うて甲板の上へハミ出した、二人のほかの乗合は無残なものでありました。出ると直ぐに大風に吹き飛ばされて、或る者は切り残された帆縄につかまって助けを呼び、或る者は船の垣根の板に必死にとりすがって海へさらわれることをさけ、辛《かろ》うじて帆柱の方へ這《は》って行く者も、雨風に息を塞がれて、助けを呼ぶの声さえ立てることができません。
 真先に、かの切り残された帆柱の切株にすがりついたお角は、
「さあ、こうしていれば、わたしゃこの船の船玉様さ、指でもさしてごらん、罰《ばち》が当るよ。乗合がみんな死んで、わたし一人が助かるんだろう。いやなこった、いやなこった、人身御供なんぞは御免だよ」
 こう言って凄《すさま》じき啖呵《たんか》を切ったけれども、憐《あわれ》むべし、このとき吹き捲《まく》った大波は、お角のせっかくの啖呵を半ばにして、船もろともに呑んでしまいました。

         五

 その翌日の朝は、風の名残《なご》りはまだありましたけれど、雨もやみ、空も晴れて、昨夜の気色《けしき》はどこへやらという天気であります。
 洲崎《すのさき》の、もと砲台の下のいわの上に立って、しきりに遠眼鏡《とおめがね》で見ている人がありました。
「清吉」
「はい」
「お前の眼でひとつこの遠眼鏡を見直してもらいたい、拙者の眼で見ては、どうも人の姿のように見える」
「お前様の眼で見て人間ならば、わたしの眼で見ても、やっぱり人間でございましょうよ」
と言って、清吉と呼ばれた若い男が、巌《いわ》の上に立っていた人から遠眼鏡を受取りました。受取って危なかしい手つきをしながら、眼のふちへ持って行って、
「なるほど、人間でございますね、人間が一人、浜の上へ波で打ち上げられているようですね」
「もし、そうだとすれば、このままには捨てて置けない」
と言って、再び清吉の手から遠眼鏡を受取った巌の人は、駒井甚三郎でありました。前に甲府城の勤番支配であった駒井能登守、後にバッテーラで石川島から乗り出した駒井甚三郎であります。
 あの時に、吉田寅次郎の二の舞だといって、横浜沖の外国船へ向けてバッテーラを漕ぎ出させて行ったはずの駒井甚三郎が、こうして房州の西端、洲崎の浜に立っていることは意外であります。
 それで傍《かたわら》にいる清吉と呼ばれた男も、あの時バッテーラの艪《ろ》を押していた男であります。二人はあの時、目的通りに外国船へ乗り込むことができなかったものと思われます。外国船へ乗り込むことができなかったものとすれば、いつのまにここへ来てなにをしているのだろう。しかし、いまはそれらを調べるよりは、遠眼鏡の眼前に横たわる人の形というものが問題です。昨夜あれほどの暴風雨であってみれば、海岸に異常のあるのはあたりまえで、それを検分するがために、甚三郎は遠見の番所から出て、わざわざ遠眼鏡をもって、この巌の上に立っているものと思わなければならないのです。
「そうですね、行ってみましょうか」
 清吉が鈍重な口調で、甚三郎の面《おもて》をうかがうと、甚三郎は遠眼鏡を外《はず》して片手に提げ、
「行こう」
「おともを致しましょう」
 そうして二人は巌の上から駆け下りました。甚三郎は王子の火薬製造所にいた時以来の散髪と洋装で、清吉もまた髷《まげ》を取払って、陣羽織のような洋服をつけています。二人とも、足につけたのは草鞋《わらじ》でも下駄でもなく、珍らしい洋式の柔らかい長靴でありました。
 二人ともこうして砲台下を南へ下りて、海岸づたいに走り出しました。
「平沙《ひらさ》の浦は平常《ふだん》でも浪の荒いところですから、あんな暴風雨《あらし》の晩に、一つ間違うと大変なことになりますね」
「左様、平沙の浦には暗礁《あんしょう》が多いから、晴天の日でも、ああして波のうねりがある、漁師たちも恐れて近寄らないところだが、もし、あれが人間であるとすれば、洲崎沖あたりで船が沈み、それが岸へ吹寄せられたものであろう、おそらく土地の漁師などではあるまい」
「そうでしょうかね、もし、房州通いの船でも沈んだんじゃないでしょうか」
「或いはそうかも知れん」
 遠見の番所の下から、洲崎の鼻をめぐって走ること五六町。
「ああ、やっぱり人だ」
「なるほど、人間ですね」
 二人は、その見誤らなかったことを喜びもし、また悲しみもし、その浜辺に打上げられた人間のところをめがけて、飛ぶように走《は》せつけました。
 磯に打上げられている人間は、女でありました。もとよりそれは息が絶えておりました。着物も乱れておりました。肌もあらわでありました。けれども、身体《からだ》そのものは極めて無事なのであります。それは波に打上げられた
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