だ脈はあるんだからお静かになせえまし、気を鎮《しず》めておいでなさいよ……ここでひとつ、一世一代の御相談が始まるんだ。というのはね、今いう通り、どうもこりゃあ人間業じゃあござんせんよ、たしかに海の神様に見込まれたものがあるんだ、それで、海の神様が、いたずらをなさるんだから、海の神様をお鎮め申さなけりゃ、この難を逃《のが》れっこなし。海の神様というのは、竜神様のことよ。こりゃあ今に始まったことじゃねえのさ、大昔の日本武尊様でさえ、この神様につかまっちゃあ、ずいぶん悩まされたもんだ。だから、その海の神様に何か差上げなけりゃア、この御難は逃れっこなし。どうです皆さん、気を揃えて、ひとつその相談に乗っておくんなさいまし」
暴風雨《あらし》に打たれたままの赤裸《あかはだか》で、腰帯に一挺の斧を挿んで、仁王の立ちすくんだような船頭が、思いきった顔色をしてこう言って相談をかけると、
「いいとも、いいとも、今もそのことで噂《うわさ》をしていたところだ、難船の時には、自分の身についているいちばん大事なものを海へ投げ込むと、竜神様のお腹立ちがなおるということだから、わたしゃあもう、この胴巻ぐるみ投げ込むことに、こうしてちゃんと了見《りょうけん》をきめてるんですよ」
「わたしゃあまた、ここに持っているこの金ののべの煙管《きせる》が、親ゆずりで肌身はなさずの品でござんすが、これをわだつみの神様に奉納するつもりで、こうして出して置きますよ」
「わしゃまた……」
「まあ待って下さい、皆さん、そんな物を纏《まと》めて投げ込んでみたって、この荒れは静まらねえよ」
「それじゃ、どうすればいいんだ」
「この船でいちばん大切なものを、たった一つ投げ込めばそれでいいでさあ」
「エエ! この船でいちばん大切な、たった一つの物というのは、そりゃ何だ」
「それがなあ……お気の毒だがなあ……」
と言って船頭は強盗《がんどう》をかざして、凄い眼をしてお角の面《かお》をじっと睨《にら》みながら、
「人身御供《ひとみごくう》ということですよ」
「エ、人身御供?」
「昔、日本武尊様が、この海で難儀をなすった時の話だ、橘姫様《たちばなひめさま》という女の方が、お身代りに立って海へ飛び込んだことは先刻御承知でござんしょう、それがために尊様《みことさま》をはじめ、乗合の家来たちまで、みんな命が助かったのだ、つまり橘姫様のお命一つで、船の中の者が残らず救われたんだ、だから……」
船頭がお角の面《おもて》を見つめたままでこう言いかけた時に、お角は颶風《つむじかぜ》のように身を起して、
「だから、どうしようと言うの、だから、わたしをどうかしようと言うの」
お角の船頭を睨《にら》んだ眼もまたものすごいものでありました。それでも船頭はやっぱりお角を睨み返しながら、
「いや、お前さんをどうしようというわけじゃあございません、お前さんの量見に聞いてみてえんでございます」
「エ、わたしの量見ですって? わたしの量見を聞いてどうするの」
「この船の中で、女のお客はお前さんだけなんですね、今まで女一人のお客というのはなかったこの船に、今日に限ってお前さんが乗り込むとこの通りの暴風《しけ》だ」
「それがどうしたの、それじゃあ、わたしが一人でこの暴風を起しでもしたように聞えるじゃないか」
「お前さんが暴風を起したんじゃないけれど、お前さんがいるために暴風が起ったようなものだ」
「何ですと、わたしが暴風を起したんじゃないけれど、わたしがいるために暴風が起ったようなものですって? 同じことじゃないか、それじゃあ、やっぱり、わたし一人がこの暴風を起したということになるんじゃないか、ばかばかしいにも程があったものさ」
外の暴風雨《あらし》よりも船頭の言い分が、お角にとっては決して穏かに聞えませんでしたから、躍起《やっき》となって抗弁しました。
「船頭さん、お前、なんだかおかしなことを言い出したね」
お角に附添って来た庄さんという若い男も、堪《たま》り兼ねて喧嘩腰になりました。
「いいや、おかしいことじゃねえのです、今日に限ってこんなことになるのは、こりゃあ必定《てっきり》、船の中に見込まれた人があるのだ、その見込まれたというのはほかじゃねえ、船ん中でたった一人の女のお客様を、海の神様が嫉《そね》んでいたずら[#「いたずら」に傍点]をなさるに違えねえのだから、お気の毒だがその人に出て行って、海の神様にお詫《わ》びがしてもらいてえのだ。なにも、こりゃ俺が無慈悲でいうわけじゃありませんよ、船の乗合みんなの衆のためですよ、もし、お前さんがみんなの衆の命を助けてやりてえという思召しがあるんなら、あの大昔の、あの橘姫の命様《みことさま》の思召しのように……」
と船頭がここまで言い出すと、お角は怺《こら》えられません。
「
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