護しようの、船の方向を誤るまいのという時は過ぎて、飛ぶだけのものは飛ばしてしまい、投げ込むほどのものは投げ込んでしまい、船の甲板の上は、ほとんど洗うが如くでありました。
 ただ船の上にもとのままで残っているのは、帆柱一本だけのようなものです。けれども、こうなってみると、その帆柱一本が邪魔物です。その帆柱一本あるがために、よけいな風を受けて、船全体が帆柱に引きずり廻されているような形になります。ただ引きずり廻されるのみならず、それがために、ほとんど船が覆《くつが》えるか、または引裂けるように、帆柱のみがいきり立って動いているとしか思われません。順風の時は帆を張って、船の進路を支配する大黒柱が、こうなってみると、船そのものを呪《のろ》いつくさねば已《や》むまじきもののように狂い出しています。
 船の底では、たかが内海だと言って気休めのようなことを言っていたが、上へ出て見れば、内も外もあったものではありません。
 風はもとより、内と外とを境して吹くべきはずはないが、海もまた、内と外とを区別して怒っているものとも覚えません。いったい、どこをどう吹き廻され、或いは吹きつけられているのだか、ただ真暗な天空と、吼《ほ》え立てる風と、逆捲《さかま》く波の間に翻弄《ほんろう》されているのだから、海に慣れた船人、ことに東西南北どちらへ外《そ》れても大方見当のつくべき海路でありながら、さっぱりその見当がつかないのであります。ややあって、
「やい、外へ出ろ、外へ出ろ、只事《ただごと》じゃねえぞ、お姫様の祟《たた》りだ。さあ、帆柱を叩き切るんだ、帆柱を。斧を持って来い、斧を二三挺持って来い。それから、苫《とま》と筵《むしろ》をいくらでもさらって来い、そうして、左っ手の垣根から船縁《ふなべり》をすっかり結《ゆわ》いちまえ、いよいよの最後だ、帆柱を切っちまうんだ」
 帆柱の下で躍り上って、咽喉笛《のどぶえ》の裂けるほどに再び叫び立てたのは船頭です。ひとしきり烈しく吹きかけた風が、帆柱を弓のように、たわわに曲げて、船は覆《くつが》えらんばかり左へ傾斜しながら、巴《ともえ》のように廻りはじめました。この声に応じて、
「おーい、おーい」
 むくむくと、波風を潜って、一人、二人、三人、四人、船頭の許まで腹這いながら走《は》せつけて来ます。走せつけて来た彼等は船頭の耳へ口をつけ、船頭は手を振り、声を嗄《か》らして、何事をか差図をします。やがて、これらの船人はまた右往左往に船の上を走りました。或る者は筵《むしろ》をさらって左手の垣へ当てて結え、或る者は筵をかかえて船縁へ縋《すが》りつく。
 この間に、帆柱からやや離れて上手《かみて》へ廻った背の高いのが、諸手《もろて》に斧を振り上げて、帆柱の眼通り一尺下のあたりへ、かっしと打ち込む。
 風下にそれを受けた、背の低いのが、それより五寸ほどの下をめがけて、かっしと打ち込む。両々この暴風雨《あらし》の中で斧を鳴らして、かっしかっしと帆柱へ打ち込みます。暴風雨はいつか二人の腰を吹き倒して、二人は幾度か転げ、転げてはまた起き直り、かっしかっしと打ち込んではまた転びます。
 やがて背の高いのが、斧を投げ捨てたと見ると、腰に差していた脇差を抜いて、はっしはっしと帆綱に向って打ち下ろすと、斧で打ち込んでおいた帆柱の切れ目が、メリメリと音を立てて柱は風下へ、さきに苫《とま》や筵《むしろ》を巻きつけておいた船縁《ふなべり》へ向って、やや斜めに※[#「てへん+堂」、第4水準2−13−41]《どう》と落ちかかりました。
 こうして船の底へ下りて来た船頭の姿を見ると、真黒くなって呻《うめ》いていた二十余人の乗合は、一度に面《かお》を上げて、
「おい、船頭さん、いったいどうなるんだね、ここはどこいらで、船はどっちへ走ってるんだね、大丈夫かね、間違いはないだろうね」
「皆さん、お気の毒だがね……」
「エ!」
「今日の暴風《しけ》は只事じゃあございませんぜ、永年海で苦労した俺共《わっしども》にも見当がつかなかったくれえだから、こりゃ海の神様の祟《たた》りに違えねえ」
「エ!」
「もう船の上で、やるだけの事はやっちまいましたよ、積荷もすっかり海へ投げ込んでしまった、わっしどもも髷《まげ》を切ってしまった、帆柱も叩き切っちまった、そうして船はもう洲崎沖《すのさきおき》を乗り落してしまった」
「何だって? 洲崎沖を乗り落したんだって? それじゃあ、もう外へ出たんだな」
「うむ、もうちっとで外へ出ようとして、巴を捲いているんだ」
「南無阿弥陀仏」
 中から一人、跳り上って念仏を唱えるものがありました。それを音頭として、つづいて題目を声高らかに唱え出すものがあります。四辺《あたり》かまわず喚《わっ》と声を上げて泣き立てる者もありました。
「まあまあ、皆さん、ま
前へ 次へ
全52ページ中7ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング