でございますか」
「そんなに四角張らなくってもいいじゃありませんか、遊んでいらっしゃいな」
「エ、私に遊んで行けと言うんでございますか、あなた様のお宅はドチラでございますか」
「何を言ってるんです、こちらへいらっしゃいよ」
「あの、琵琶を御所望でございましょうな」
「琵琶? そんなものは知りませんよ、そんなことはどうだっていいじゃありませんか」
「いいえ、よくはございません、わたくしは琵琶弾きなんでございますよ、眼が不自由なもんでございますからね、それで、琵琶を弾いて、人様からお恵みを受けているような身の上でございます、琵琶も私のは平家でございますから、薩摩や荒神《こうじん》のように陽気には参りませんでございます、それに、私も未熟者でございましてね、あんまり上手とは申し上げられないんでございますから、芸人を呼ぶと思召《おぼしめ》さずに、哀れな盲《めくら》を助けると思召してお聞き下さいまし、そうでないと、お腹も立ちましょうと思います」
 弁信はこう言って、あらかじめ申しわけをすると、柳の蔭にいた女は笑いこけるように、
「滅多にこんな正直なお方にはぶっつからないのよ。お前さん、もうお帰りのようだが、ドチラへお帰りになるの」
「エエ、私でございますか、私はこれから本所へ帰るんでございますよ、本所の法恩寺の長屋に住んでいる、弁信というものでござんすからね」
「まあ、本所へ帰るの、それじゃ、わたしも少し早いけれど、一緒に帰りましょう」
 ずっと前に、宇治山田の米友が、この通りで、同じような女の声で呼び留められたことを御存じの方もございましょう。
 柳の蔭から出て来たのは、お蝶と言ったその時の女でございます。
 お蝶は、決して醜い女ではありません。もう二十二三になるでしょうか、背がスラリとして色も白く、面《かお》に愛嬌があります。こんなところには珍らしいくらいの女で、明るい世間へ出しても、十人並みで通る女でありました。手拭を頭から被《かぶ》って出て来たお蝶は、弁信の傍へ寄って来て、
「わたしも、本所の鐘撞堂《かねつきどう》まで帰るんですから、送って上げましょうか」
「はい、有難うございます」
 お蝶は弁信の案内者になりました。弁信は異議なくその好意を受けて、二人は打連れて淋しい河岸を歩いて行きます。
「弁信さん、あなたは法恩寺様の長屋に、ひとりでいらっしゃるんですか」
「エエ、たった一人でおります、ひとりぼっちでございます」
「御飯の世話なんぞは、誰がしてくれるんです」
「みんな自分でやるんでございます、これから帰ってお茶漬を食べて、それから床を展《の》べて、ゆっくりと足を踏伸ばすのが、私の一日中の楽しみなんでございます」
「眼が不自由で、よくそんなことができますね」
「でも、近所の人様が可愛がって下さる上に、私は御方便に勘《かん》がようございますから、世間並みの盲目《めくら》のように不自由な思いは致しません」
「それでも、病気の時だとか、洗い洗濯だとかいうことはお困りでしょう、悪くなければ、わたしが時々行って、お世話をして上げるけれども」
「悪いどころじゃあございません、どうかいつでもおいでなすって下さいまし、お正午《ひる》前のうちは家にいるんでございますから。法恩寺の長屋へおいでになって、琵琶の盲目とお聞きになれば直ぐにわかりますから」
「それでは明日の朝参りましょう」
「どうぞおいで下さいまし。失礼でございますが、あなたのお家は、本所のどちらでございましたかね」
「わたしのところは本所の鐘撞堂新道《かねつきどうしんみち》なのです、鐘撞堂新道の相模屋という家にいてお蝶というのが、わたしの名前ですからよく覚えていて下さい、そうして、わたしも昼間はたいてい遊んでいますから、お暇の時は話しにおいでなさいな」
「そうでしたか、鐘撞堂新道というのは、わたしのところからそんなに遠い所ではございませんね」
「エ、近いんですよ」
「わたしは、房州の者でございましてね、ほんのツイ近頃この江戸へ参ったものですから、よく案内がわかりませんでございます、それに友達といっても一人も無いんでございますよ。でもね、人様が大へん私を親切にして下さるものですから、そんなに淋しいとは思いませんよ。それに私は、どなたでも人様が好きなんです、何でもいいから人様のためになるようなことばかりして、一生を送って行きたいと思ってるんですよ。そりゃ、出来やしませんよ、なにしろ人間がこの通りでございますし、その上に不具《かたわ》ときていましょう、人様のためになるどころじゃなく、人様の御厄介にならないのがめっけものです。でもね、こうして拙《つたな》い琵琶を弾いて歩きますと、人様が御贔負《ごひいき》をして下すって、自分の暮らしには余るほどのお金が手に入るもんですから、それをみんな善いことに
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