使ってしまいたいと、こう思っておりますんでございます」
「まあ、お前さんはなんという感心な人でしょうね、わたしなんぞも、早くそんな心がけになればいいんですけれど」
「世間のことは、なかなか思うようにはならないものでございますよ。そうして、あなたは鐘撞堂で、何を御商売になすっておいでなさいますね」
弁信はこう言って、お蝶にたずねました。
女は、その返答には困りました。
「そんなことは何だっていいじゃありませんか。それでもね、わたしはお前さんのような人は大好きなのよ」
ともかくも、ちょっと道ばたで行逢った人にしては、あまりになれなれしい物の言い方でありました。しかし、弁信は少しもその相手方を疑うようなことはありません。
「あ、鐘が鳴りましたね、あれは上野の鐘ですね」
弁信がたちどまって、鐘の音に耳を傾けるようでしたが、お蝶にはそれが聞えません。
「あなた、何を言ってるんです、鐘も何も聞えやしないじゃありませんか、上野の鐘がここまで聞えるものですか」
「いいえ、あれは上野の鐘です、ほかの鐘とは音《ね》の色が違います」
弁信は取合わないで、鐘の音を数えていたが、
「ああ、九ツです、もう九ツになりましたね」
「そうでしょう、もうかれこれ、そんな時分でしょうよ」
それで二人はまた歩き出しました。左は土手、右は籾倉《もみぐら》の淋しいところを通って行くと、和泉橋《いずみばし》の土手には一個所の辻番があります。
「どうも御苦労さまでございます、私は本所の法恩寺前の長屋に住んでおりまして、弁信と申しまする琵琶弾きでございます、おそくなりましてまことに相済みませんでございます」
こう言って、先方から何も言われない先に弁信は丁寧に名乗って、お辞儀をしてその前を通り過ぎました。お蝶はその馬鹿丁寧をおかしいと思いながらも、盲目《めくら》だというのに、どうしてここに辻番のあることだの、辻番に人がいるかいないかだの、それがわかるのだろうかと不思議に思います。それのみならず、さきに鐘の音に耳を傾けた時も、自分にはどこで、どんな鐘が鳴ったのだか、さっぱりわからないうちに、この琵琶弾きはそれを聞き取った上に、確かにこれは上野の鐘だと極《きわ》めをつけてしまったのも不思議です。盲は目が見えない代りに、勘がいいものだというが、それにしてもこの琵琶弾きは、あんまりに勘が好過ぎると思いましたから、
「弁信さん、お前さんは、なんだってあんな馬鹿丁寧に辻番へ挨拶をするんです、第一、番人がいやしないじゃありませんか」
わざとこう言って試してみると、
「いいえ、そんなことはございません、二人おいでになりましたよ、一人の方は番所の中に、一人の方は、たしか棒を持って、私たちを咎《とが》めようとして、こっちへおいでなさるようだから、私は、その前にああいって、ちゃんと申しわけを致してしまいました」
弁信に図星《ずぼし》を指されて、
「まあ、なんてお前さんは勘がいいんでしょう」
お蝶は舌を巻いて、暗いところから弁信の面《おもて》を見直しました。それは、もしや、この按摩が偽盲《にせめくら》で、そっと目をあいているからではないかと思ったからです。しかし、盲目であることに正銘《しょうめい》偽りのないのは、その面《かお》つきでも、足どりでも、また杖のつきぶりでも、充分に信用ができるのであります。
こうして二人は、郡代屋敷のところまで来てしまいました。その時に、盲法師の弁信が、凝然《じっ》として郡代屋敷の塀際に突立ってしまいました。
「あ、あ、あ、あぶない」
杖を以て、前へ出ようとするお蝶を、弁信はあわてて支えました。
「どうしたの」
「いけません、いけません」
弁信は必死に杖を以てお蝶を支えて、一歩も進ませないようにしながら、己《おの》れは身を戦《おのの》かしつつ立っていたのであります。
「どうしたんですよ」
「誰かいます、行ってはいけません、行くと殺されます」
「エ!」
お蝶は弁信の傍へ、固くなって立ちすくみました。
土手の蔭に、蛇がからみ合っているように、二つの人影が一つになって、よれつ、もつれているのを弁信はむろん見ることができません。お蝶もそれを知るには、まだあまりに遠い距離でありました。
しかしながら、土手の蔭の二つの人影は、からみ合って、そうして、おのおの炎のような息を吐いていることはたしかです。
「お前の歳は幾つだ」
炎のような息を吐きながら、一つの影が上から押しかぶせるように言いました。
「どうぞ御免下さい」
抱きすくめられているのは、やっぱり女の声でありました。
「うむ、歳は幾つだ、それを言え」
大蛇が羊を抱き締めたように、ぐるぐると巻いた、その炎の舌のあるじは、まさに男です。
「十九でございます」
女は息も絶々《たえだえ》になっている
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