って? お前さん、何の御用でおいでなすったんだい」
「へえ、別に用というわけでもございませんが、人さんのおっしゃるには、両国のこれこれのところで、清澄の茂太郎が今、大変な評判になっているということでございますから、こうやって会いに参りました」
 盲法師は、竹の杖に両手を置いてこういうと、楽屋番は不機嫌な面《かお》をして、
「そりゃ、茂太郎さんはこちらにいるにはいるんですが、忙がしいから、そうお目にかかれますまいよ」
「そうでございますか、そんなに忙がしいんでは無理にと申すわけには参りませんね。わたくしもね、こちらへ来ては、まだ一度も会わないものでござんすからね、評判を聞くと、どうも会ってみたくて堪らなくなりましたんで、それでこうやって尋ねて参りました、ちょっとでもよいから会って行きたいんですが、そうも参りませんでしょうかね」
「せっかくだが、今日は駄目だよ、また出直しておいでなさいまし」
「それでは、また出直して来ることに致しましょう、茂ちゃんに、そうおっしゃって下さい、弁信が尋ねて来たとおっしゃって下されば直ぐわかります。私もね、あの子が山を逃げると間もなく、山を出てこうやってこの土地へ参りました、ただいまのところでは法恩寺の長屋に厄介になっておりますんですが、ことによると近いうち、下総《しもうさ》の小金ケ原の一月寺《いちげつじ》というのへ行くことになるかも知れません、それはまだきまったわけじゃあございませんから、当分は法恩寺に御厄介になっているつもりでございます、またわたくしも訪ねて参りますが、茂ちゃんにも、どうか遊びに来るようにおっしゃって下さいまし。それでは今日はこれで失礼を致します」
 背に負っている琵琶を重そうに、楽屋番の前に頭を下げたのは、例の清澄寺にいた盲法師の弁信でありました。
「ようござんす、そう言いましょう。おっと危ない危ない、突き当ると溝《どぶ》ですぜ、板囲いについて真直ぐにおいでなさいまし、広い通りへ出ますから」
 楽屋番は出て行く弁信を、後ろから気をつけてやりましたけれど、そのあとで、
「いやに薄汚《うすぎた》ねえ坊主だ、どうしてこんなところへ入って来やがったろう、一人で入って来たにしてはあんまり勘が良過ぎらあ」
 ぶつぶつ言って、中へ引込んでしまったが、弁信から言伝《ことづ》てられたことは一切忘れてしまって、その趣を茂太郎に取次ごうともしない。弁信は湿っぽい路次を辿《たど》って、広い通りの方へ歩いて行きました。
 清澄の茂太郎が両国へ現われるのと前後して、盲法師の弁信も江戸へ現われました。
 ところもあまり遠からぬ法恩寺の長屋に居候《いそうろう》をすることになった弁信は、毎夜、琵琶を掻《か》き鳴らして江戸の市中をめぐります。清澄にいる時分、上方から来た老僧から、弁信は平家琵琶を教えてもらいました。
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「祇園精舎《ぎおんしょうじゃ》の鐘の声、諸行無常の響あり、沙羅双樹《さらそうじゅ》の花の色、盛者必衰《しょうじゃひっすい》の理《ことわり》をあらはす……」
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 もとよりそれは本格の平家でありましたけれど、門付《かどづ》けをして歩いて、さのみ人の耳を喜ばすべき種類のものではありません。だからこの盲法師をつかまえて、銭を与えようとする人は極めて乏しいものです。ただでも耳を傾けようとする人すら、極めて少ないものでありました。
 どうかすると、しかるべき身分の人が、
「珍らしいな、いま平家を語るものは江戸に十人と有るか無いかだが、その平家を語って、門付けをして歩くのは珍らしい」
と言って珍らしがり、わざわざ自分の屋敷へまで招《よ》んでくれる人がありました。そんな人の与える祝儀が唯一の実入《みい》りで、市中で銭を与える人は、前に言う通り極めて少ないものでありましたけれども、弁信は怠らずに、それを語って歩きます。
 この頃、両国で茂太郎の評判が高いのを聞き、もしやと思って今日は出がけに、この軽業小屋を訪ねてみましたけれど、楽屋番はすげ[#「すげ」に傍点]なく断わってしまいました。すげ[#「すげ」に傍点]なく断わられても、大して悄《しょ》げもせずに路次を立ち出でました。
 で、どこをどう歩いて来たか、その夜になって、もう琵琶を袋へ納めて背中へ廻し、家路に帰ろうとする気配《けはい》で通りかかったのは、例の柳原河岸《やなぎわらがし》です。
「もし、ちょいと」
 河岸の柳の蔭から呼ぶものがありました。呼ばれる前に立ってしまった弁信は、
「はい、どなたか私をお呼びになりましたか」
 そう言って例の法然頭《ほうねんあたま》を左右に振り立てました。
「ちょいと」
 柳の蔭で、声ばかりが聞えます。その声は若い女の声であります。
「お呼びになったのは私のことでございますか、何ぞ私に御用
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