ば打ち返しもしない。じっと泡を吹いたなりで我慢しているところは、さすがに米友も、いくらか修行を積んだものと見なければなりません。
 それを、どう見て取ったのか、いい気になった金助はかさ[#「かさ」に傍点]にかかって、
「何だい、貴様の面《つら》はそりゃ。両国の見世物にだって、近ごろ貴様のような面は流行《はや》らねえや。ちょっと見れば餓鬼《がき》のようで、よく見れば親爺《おやじ》のようで、鼻から上は、まるきり猿で、鼻から下だけが、どうやら人間になってらあ、西遊記の悟空を、三日も行燈部屋へ漬けておくとそんな面《つら》になるだろう。よくまあ、昼日中《ひるひなか》、その面をさげて大江戸の真中が歩けたもんだ、口惜《くや》しいと思ったら、親許《おやもと》へ持ち込むんだね、親許へ持ち込んで、雑作《ぞうさく》をし直してもらって出直すんだ」
 この時分、あたりへようやく人だかりがしました。人だかりがしたから、金助は、いよいよ得意げに毒舌を弄《ろう》して、米友をはずかしめようとするらしい。
「野郎!」
 米友は歯をギリギリと噛み鳴らしました。けれども、まだ、自分からは打ってかからない米友は、何か思う仔細があるのか、ただしは誰人かに新しく堪忍《かんにん》の徳を教えられてそれを思い出したから、ここが我慢のしどころと観念しているのかも知れません。それをそれと知らずして、かさ[#「かさ」に傍点]にかかっている金助は、噴火口上に舞踏していると言おうか、剃刀の刃を渡っていると言おうか、危険極まる仕事であります。
「何とか言えよ、このちんちくりん[#「ちんちくりん」に傍点]」
 右の利腕《ききうで》を取られている金助は、この時ガーッと咽喉《のど》を鳴らして、米友の面上めがけて吐きかけようとしたから、
「野郎!」
 ここに至って米友の堪忍袋の緒はプツリと切れました。片手に携えていた杖を橋の上にさしおくと、のしかかって来た金助を頭の上にひっかぶりました。米友の頭の上で泳ぐ金助を、意地も我慢も一時に破裂した米友は、そのまま橋の欄干近くへ持って行くと見るまに、眼よりも高く差し上げて、ドブンと大川の真中へ抛《ほう》り込んでしまいました。
 金助を川へ抛り込んだ米友は、物凄い面《かお》をして橋の上に置いた杖を拾い取ると、あっと驚く見物を見向きもせず、跛足《びっこ》の足を、飛ぶが如くに向う両国を指して走《は》せ行ってしまいました。

         十六

 神尾主膳の隠れている例の染井の化物屋敷は、依然として化物屋敷であります。
 真中の母屋《おもや》には神尾主膳が住み、そこへ出入りするのは、旗本のくずれであったり、御家人のやくざ[#「やくざ」に傍点]者であったり、どうかすると、角力《すもう》や芸人上りのようなものであったりするけれども、ここではあまり騒ぐことはなく、三日に一度ぐらい、主膳はその家を忍び出でて、夜更けて帰ることが多い。
 それから離れの方には、例のお絹が別に一廓を構えて、若い女中を一人使って、ほとんど母屋とは往来をしないで立籠《たてこも》っているかと思えば、土蔵の中にはお銀様が、怨《うら》むが如く、泣くが如く、憤《いきどお》るが如く、ほとんど日の目を見ることなしに籠っているのであります。お銀様と神尾の台所の世話をしているのは、練馬《ねりま》あたりから雇い入れた女中ではあるが、この女中は少しく痴呆性《ちほうせい》の女で、それに聾《つんぼ》ときているから、化物屋敷にいて、化物の物凄いことを感得することができません。
 今日は神尾主膳が、朝から酒につかりながら、座敷の壁へ大きな一枚板を立てかけて、酔眼を開いてそれを見据えていると、傍に、よく肥った奴風《やっこふう》の若いのが、片肌ぬぎでしきりに墨を摺《す》っています。
「殿様、うまくひとつ書いてやっておくんなさいましよ、贔負分《ひいきぶん》にね」
「ふーん」
 神尾は鼻であしらいながら、筆立の中から木軸の大筆を取って、ズブリと大硯《おおすずり》の海の中へ打ち込みました。
「無駄を言うな」
「だって、後見がうまくなけりゃ太夫が引立たねえや。さあさあ、殿様の曲芸、米※[#「くさかんむり/市」、第3水準1−90−69]様《べいふつよう》の筆を以て、勘亭流《かんていりゅう》の看板をお書きになろうとする小手先の鮮《あざや》かなところに、お目をとめられてごろうじろ」
「馬鹿」
 神尾は大奴《おおやっこ》の無駄を軽く叱って、板の面《おもて》を目分量して字配《じくば》りを計りながら、硯の海で筆をなや[#「なや」に傍点]しておりましたが、やがて板へぶっつけに、「江」という字を一息に書いてしまいました。
「うまい!」
 大奴が半畳《はんじょう》を入れると、神尾は苦笑《にがわら》いして、
「気が散るからだまってろ」
と言って、今度は
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