息を抜かずに筆をふるって、縦横に書き上げたたて看板の文字は、「江戸の花 女軽業」の七文字であります。
「太夫、御苦労」
 大奴は硯《すずり》の下にあった団扇《うちわ》を取って、神尾を煽《あお》ぎ立てました。
 書いてしまった七文字を神尾は、また右見左見《とみこうみ》してながめています。文字は決して悪い出来ではありません。文字の示す通り、女軽業の看板としては勿体《もったい》ない書風であります。神尾とても看板書きになったわけではなく、頼まれたればこそ、こうして筆を揮《ふる》うのでありましょう。そこへ廊下を歩いて来る人の音、
「殿様、殿様、ドチラにいらっしゃるんでございます」
 それは聞いたことのある女の声。
「おや、福兄《ふくにい》さんもおいでなんですか」
 入って来たのは、女軽業の親方のお角でありました。
「いよう、これはこれは両国橋の太夫さん」
 福兄と言われた大奴は、細い目をしてお角を迎えました。
「殿様、御機嫌よろしう」
 お角は神尾の前へ手を突いて、頭を下げました。
「頼まれ物が出来上ったぞ」
 神尾も御機嫌がよく、お角の面《かお》と、いま書き上げた看板とを見比べていますと、
「まあ、お書き下さいましたか、これはこれは、なんというお見事なお筆でございましょう、生きているようでございますね」
 お角も看板の文字を見て、心から嬉しそうであります。
「生きているとも」
 神尾もまた自分ながら、書き上げた看板の文字に得意でいます。
「太夫元、奢《おご》らなくちゃあいけやせんぜ」
 福兄《ふくにい》はこう言って、お角を嗾《け》しかけました。
「奢りますとも、何なりとお望みに任せて」
「よろしい、所望がある」
 福兄が改まってむきになると、
「福、貴様がでしゃばるところじゃないぞ、貴様は墨のすり賃に、二百も貰って引込めばいいんだ」
 神尾が福兄をたしなめると、福兄は納まらず、
「いけやせん」
 胡坐《あぐら》を組み直して強面《こわもて》にかかろうとするのを、お角は笑いながら、
「福兄さんには殿様に内密で、わたしが、たくさんお礼を致しますから、もう少し待って下さいね、今が大事の時なんですから。その代り今度のが当りさえすれば、ほんとうに福兄さんを福々にして上げますからね」
「うまく言ってやがらあ。けれども、そう話がわかりゃそれでもいいんだ」
 福兄はそれで、どうやら納まりかけた時に、神尾主膳が、
「お角、今に始まったことではないが、お前の腕の凄いのには恐れ入った」
 改まったような言いがかりだから、お角も用心して、
「殿様、改まって何をおっしゃるのでございます」
「しらを切っちゃいかん、お前が今度の房州行きなんぞは運もよかったが、腕の凄さは、いよいよ格別なものだ」
「神尾の殿様、そんな気味の悪いことをおっしゃっておどかしちゃいけません、こう見えても気が小さいんですからね」
「あんまり気が小さいから、少しはオドかして、大きくしてやらぬことにはしまつがつかん」
「何をおっしゃるんですか、わたしには一向わかりません」
「お前にはわかるまいが、こっちには、すっかり種が上っているんだ、房州へ行って命拾いをして来た上に、金箱を背負《しょ》い込んで来て、それでなにくわん面《かお》をして口を拭っているところなんぞは不埒千万《ふらちせんばん》だ、なあ、福」
 主膳が福兄を顧みると、福兄は一も二もなく頷《うなず》いて、
「そうですとも、そうですとも、ありゃ実際、不埒千万ですよ、あれはただじゃ置けませんよ」
「福兄さんまでが殿様に御加勢なんですか、金箱とおっしゃったって、まだ分らないじゃありませんか、まだ乗るか反《そ》るか、打ってみなけりゃわからないじゃありませんか」
 お角は外《そ》らしてしまおうとすると、神尾はそれを取って抑えて、
「その手は食わん、金箱というのは、茂太《もた》とやら茂太《しげた》とやらいう小倅《こせがれ》のことではない、そのほかに確かに見届けたものがあるのじゃ。若い綺麗《きれい》な、金のたくさんある男と、お前が仲睦まじく飲んでいたとやら、それをちゃあーんと見届けた者が我々の仲間にある。お角、あんまり凄い腕を振い過ぎると、祟《たた》りが怖かろうぜ、がんりき[#「がんりき」に傍点]の百とやらもだまっちゃいなかろうぜ」
「エ!」
 神尾からこう言われて、さすがのお角もギョッとしたようです。
「それは違います、それは違います」
 お角は、あわててそれを打消すと、神尾が意地悪く、
「福、お角は違うと言ってるが、お前はどう思う」
「違いませんな」
 福兄は得たりと引取って、空嘯《そらうそぶ》く。
「では、福兄さん、お前さん、何をごらんなすったの」
「さあ、拙者が、じか[#「じか」に傍点]に見たというわけじゃねえのだが、両国の、とある船宿の二階で、さ
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