に置いて、脚絆《きゃはん》のまま右の足を曲げて左の方へ組み上げたのは、町人風はしているけれども、決して町人ではありません。
 それと向き合った一方のは、前のに比べると年配であります。これはまあ生地《きじ》が百姓らしい上に一癖ありそうで、前のほど横柄《おうへい》でないところは、主従とも見えないが、たしかに前のに対して一目は置いているようです。
 この二人は甘酒に咽喉をうるおしながら、期せずして頭の上の、例の大きな額面に眼が留まりました。
「ははあ、甲源一刀流、秩父の逸見《へんみ》だな」
と言ったのは、足を曲げていた方の道中師です。
「なるほど、逸見先生の御内《おうち》で、大した額を奉納なさいました」
 前のは言い方が横柄で、後のは幾分か慎《つつま》しやかであります。
「うむ、比留間与助、知ってる、桜井なにがし、あれも名前は聞いている、それから三番目……のはどうしたんだ、白紙《しらかみ》を頭から貼りかぶせたのは不体裁《ふていさい》極まるじゃないか」
 その口調にこそ相異はあれ、たった今、がんりき[#「がんりき」に傍点]の百がしきりに憤慨したのと同じ動機に出でているので、心ある人ならば、誰もその無下な仕方を不快に思わないものはないはずです。
「左様でございますな、何とか仕方がありそうなものでございますな、せっかくの結構な額が、あれのためにだいなしになってしまいますでございますね……おやおや、お待ち下さいましよ」
 年配の方の道中師が、やはり、それをながめているうちに面《おもて》が曇ってきました。
「何だ、どうかしたのか」
 横柄《おうへい》の方のが、それを聞き咎《とが》めると、
「その次に記されておいでになるのは、ありゃ何とございます、宇津木……宇津木と書いてあるんじゃございませんか」
「そうそう、宇津木と書いてある、宇津木文之丞……」
「わかりました、わかりました、思いがけないところで、思いがけない人にぶっつかりましたよ、いやどうも、なんだか怖ろしい因縁がついて廻っているようでございますよ、驚きました」
 こう言って、例の白紙に貼りつぶされた無名の剣客の名前を、呪われたもののような眼付でながめ入るのが変でしたから、横柄な方の道中師が、
「貴様、独《ひと》り合点《がてん》で、幽霊のようなことを言ってはいかん」
「先生、この白紙をかぶせられているお方の名前を、私はちゃんと読みました、紙の上から、ちゃあんと見透しました、千里眼ですよ、失礼ながら先生にはそれがお出来になりますまい」
「何を言ってるんだ、そんなことがわかるものか」
 ここに二人の道中師という、その年配の方のは七兵衛であります。そうして横柄な方のは、もと新徴組にいた浪士の一人で、香取流の棒を使うに妙を得た水戸の人、山崎譲であります。
 七兵衛と山崎譲とが、こうして組んで歩くことは、がんりき[#「がんりき」に傍点]の百が南条力の手先になっていることよりは、むしろ奇妙な縁と言わなければなりません。
 壬生《みぶ》の新撰組にあって山崎は変装に妙を得ていました。七兵衛が島原の遊廓附近に彷徨《さまよ》うて、お松を受け出す費用のために、壬生の新撰組の屯所《とんしょ》へ忍び入った時に、山崎はたしか小間物屋のふうをして、そのあとを追い、さすがの七兵衛の胆《きも》を冷させたことがあります。
 それがいつのまに妥協が出来たのだろう、こうして主従のような、同行《どうぎょう》のような心安立てで歩いているまでには、相当のいきさつがなければならないことです。
 思うに、七兵衛とがんりき[#「がんりき」に傍点]とは、甲府の神尾主膳の屋敷の焼跡を見て、その足で木曾街道を一気に京都までのし[#「のし」に傍点]たはずであります。山崎譲はその以前、同じく甲府の神尾方へ立寄って、それから道を枉《ま》げて奈良田の温泉に入っている時に、計らず机竜之助――それは新撰組では吉田竜太郎の変名で知られているその人に逢いました。そこで竜之助と別れて後、上方《かみがた》へ馳《は》せつけたはずであります。また南条と五十嵐との両人も、何か上方の変事を聞いて大急ぎで東海道を馳せ上ったはずであるから、彼等は期せずして上方の地で一緒になったものでしょう。そうして、がんりき[#「がんりき」に傍点]は南条、五十嵐らにつかまってその用を為すに至り、七兵衛は山崎譲につかまって、何かの手助けをせねばならぬ因縁が結ばれたものと思われます。
「先生、あなたも少々お頭《つむり》を捻《ひね》ってごらんなさい、すぐにそれとおわかりになることじゃございませんか」
「なに、貴様にわかって、拙者にわからんことがあるものか」
と言って、改めて甲源一刀流の開祖、逸見太四郎義利の文字から読みはじめて、門弟席の第一、比留間、桜井、その次の白紙の主を、紙背に徹《とお》るという
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