、そのほか集まる人々がおおかた席を退いたけれども、駒井能登守は柱に凭《もた》れ腕組みをして俯向《うつむ》いていました。
 すべての人が席を退いたあとで、能登守はそこを立ち上りました。その時に面色《かおいろ》は蒼ざめていました。足許がよろよろするのを、辛《かろ》うじて刀を杖にして立ったように見えました。さすがにこの人とても非常なる心の動揺を鎮めるのに、多少の苦しみを外へ現わさないではいられないのでしょう。それでも玄関へ出た時分には、なにげない面色で家来たちを安心させました。お供の家来たちは、不幸にして主人の受けた恥辱と、その心の中の苦痛を知らないのであります。
 こんなわけで、能登守の乗物は無事に邸へ帰るのは帰ったけれど、その時になって大きな騒ぎが起りました。主人が御番所において受けた容易ならぬ恥辱を、お供の者が知らない先に、邸へ知らせたものがありました。そこで家老とお供頭《ともがしら》との間に、烈しい口論がありました。口論ではなく家老がお供の者たちを罵《ののし》って、
「腰抜け! たわけ者! ナゼその場で神尾主膳を討って取らぬ、その場で討つことが叶《かな》わずば、途中においてナゼ神尾主
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