ころへおいでなさい」
 お絹はわざと、お松に猶予《ゆうよ》と口実を与えないかのように見えました。そうして退引《のっぴき》させずにお松を自分の居間へ連れて来てしまいました。お松はどうすることもできませんから、そこへ畏《かしこ》まって早くお師匠様が用事を言いつけて下さるようにと、腹の中でそれを焦《せ》き立てていましたけれど、なぜかお師匠様なる人は、いつもより悠長に構え込んでいるもののようであります。
「あの、御用向きは何でございましょう」
 お松は堪《たま》り兼ねて催促してみました。その時に、お師匠様なる人はようやく、
「お前、あのお長屋へ行くというのは嘘だろう」
と微笑しながら、お松の面《かお》に疑いの眼を向けました。
「いいえ」
 お松は見られて煙たいような心持です。
「お長屋へあの乳呑子《ちのみご》を見に行くと言っておいて、お前は時々、駒井様のお邸へ遊びに行くそうな」
「左様なことはござりませぬ」
 この時もお松は、しどろもどろな打消しを試みましたけれど、その打消しは自分ながら、まずいものだと思わないわけにはゆきません。
「あってはなりませぬ、あのお邸へ遊びに行くことは、お前のために
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