ようとする時に、例のムク犬が庭先へ尋ねて来ました。
早くも眼にとまったのは、ムク犬の首に結《ゆわ》いつけられた紙片《かみきれ》であります。
お松は心得てその紙片を取って見ると、それに「静馬《しずま》」と記してありました。
それだからお松はハッとしました。兵馬さんが訪ねて来ていると思うと、気がソワソワとして落着かなくなりました。これから駒井家を訪れようということなども忘れてしまいました。
急いでこのムク犬の導いて行くところへ行かなければならない。お松はソコソコに身仕度をして、履物《はきもの》を突っかけようとする時に、
「お松」
と言って奥の方から出て来たのは、お絹でありました。
「はい」
「お前はどこへ行きます」
「ちょっと、あのお長屋まで……」
お松は、悪いところへお師匠様が出て来てくれたと思わないわけにはゆきません。
「少しお待ち、お前に頼みたいことがあるから」
「はい……」
お松にとっては、いよいよ悪い機会でありましたから、その返事もいつものように歯切れよくはゆきませんでした。それでもと言って、出かけて行く口実にも窮してしまいました。
「まあ、こっちへおいで、わたしのと
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