く世話をさせるにはさせます。そのほかの時は、神尾の屋敷でお松に愛されることによって、ムク犬はお君に失い、米友に行かれた空虚を補うことができるらしくありました。
 お米倉の構外《かまえそと》まで来た時に、兵馬はムク犬を顧みてこう言いました。
「ムク、お前は賢い犬だ、神尾の屋敷から、お松の便りをしてくれたのはお前だそうだ、今日は、わしからお松の許《もと》まで、お前に使を頼む」
 兵馬は、紙と矢立を取り出してサラサラと一筆|認《したた》め、それを紐《ひも》でムク犬の首に結《ゆわ》いつけました。
 ムクは確かに神尾の屋敷の中へ入って行ったけれども、容易にその返事を齎《もたら》しませんでした。兵馬は長くそこに立っていることがけねんに堪えられない。人目に触れないように、行きつ戻りつしていたけれど、ムクは容易に戻って来ませんのです。兵馬はここに人を待つ身となりました。
 待つ身になってみると、来る人が一層恋しくなるものか知ら。兵馬は早くお松に会いたい会いたいという心が、今までになかったほど胸に響きます。
 お松から愛せらるることの多かった兵馬。今はお松を慕う心が、我ながら怪しいほどに切《せつ》になっ
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