ずに邸を去りました。思い切ってその諫言をしないで邸を去った腑甲斐なさを、ここでも悔む心になりました。
あれほどの人でも女に溺れると、目がなくなるものかと情けなくもなります。溺れる心はないが、今の自分もやはりお松という女に、苟且《かりそめ》ながら引かれて来たことを思うと、そこにも情けないものがあるようです。恰《あたか》もよし、この時、兵馬の空想を破るものが足許から起って来ました。
恰もよし、とは言うけれども、実際それは善かったか悪かったかは疑問であります。
兵馬の足許に現われた黒い物は、ムク犬であります。
「ムク」
兵馬は低い声でその名を呼んで頭を撫《な》でました。ムクは尾を振って喜びました。
兵馬とムク犬との間柄の、よく熟していることは、久しい前からのことでありました。お君を理解し、お松を理解し、また米友を理解するムク犬が、いつまでも兵馬に対して敵意を持っていようはずがありません。兵馬はこの犬を見て、このさい最もよき使者の役目をつとめるのは、この犬のほかにないと喜びました。
「ムク、こっちへ来い」
兵馬は素早く歩き出しました。その旨《むね》を心得てかムク犬は、兵馬のあとを跟
前へ
次へ
全185ページ中37ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング