つも、どうも能登守の屋敷へは行けないのであります。行って行けないことはないけれども、今は行くべき必要が無いはずなのであります。
 それで兵馬は空《むな》しく経文を誦しつつ、徒《いたず》らに甲府の町を歩きました。歩き歩いているうちに、いつしか駒井能登守の屋敷の後ろへ来てしまったことに気がつきました。
 やや歩いて行って振返った時に、駒井の屋敷の長屋塀のある門前から左の方に、高く二階家の燈《ともしび》の光の射すのを遠目にながめました。そこは自分が獄中から出て病を養うたところである。
 それから右の方へ廻って後ろになって能登守の居間があり、お君の方《かた》のお部屋がある。お君という女はもと賤《いや》しい歌唄いの女、それと知ってか知らずにか、能登守ほどの人が寵愛《ちょうあい》していることを、兵馬はその時分も異様に思いました。
 能登守は無論お君の素性《すじょう》を知らないのだろう。知らないとすれば、それが現われた時はどうなるだろう。これは能登守の生涯の浮沈に関する大問題に相違ないのであります。
 兵馬はその時分に、能登守のために諫言《かんげん》をしようかとも思いました。
 けれどもその機会を得
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