ってから、
「紙があったはず、それから筆と墨と」
「何かお書きなさるの」
 お銀様は竜之助の請求を怪しみながらも、手近の硯箱《すずりばこ》と一帖の紙とを取寄せて机の上に載せながら、
「わたしが書いて上げましょう、用向きをおっしゃって下さい」
「ええと、その紙で帳面をこしらえてもらいたい、半紙を横に折って長く逆綴《ぎゃくとじ》にしてもらいたい」
「横に折って長く逆綴に? そうして何にするのでございます」
 お銀様は、竜之助に頼まれた通りに帳面をこしらえ始めました。紙撚《こより》をよってそれを綴じてしまって机の上へ置き、
「逆綴というのは、これはお葬いやなにかの時にするものでございましょう」
「死んだ人へ供養のためにするのじゃ」
「供養のために?」
 お銀様は、いよいよ竜之助の挙動と言語とを怪しまずにはおられませんでした。
「今日の日は何日《いつ》であったろう」
「二月の十四日」
「それでは、そこへ初筆《しょふで》に二月十四日の夜と書いて……」
「二月十四日の夜、と書きました」
「その次へ、甲州八幡村にてと……」
「はい、甲州八幡村にて」
「その次へ、少し頭を下げて、名の知れぬ女と書いて」
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