覚悟をしています。
 和田静馬の名は、或る時において兵馬が仮りに名乗る名前でありました。お松はその名をこの場合に利用したことが、こんな風に喰い違ったことを知ろうはずがありません。
 再び役人の来るべき時を予想して待っていると役人は来ないで、障子の外に人の気配がしたかと思うと、密《そっ》とそこを開いて、
「御免なさいまし」
 小さい声で言いながら面《かお》を出したのは、思いきや、がんりき[#「がんりき」に傍点]の百でありました。
「…………」
 お松は呆気《あっけ》に取られていると、
「また参りました」
 来なくてもよい男であります。お松は苦《にが》りきっていました。
「また参りましたのは、大変が出来たからなんでございます。大変というのは、わたしどもの方の大変ではございません、あなた様の方の大変なのでございます、そのあなた様がこうして落着いておいでになる気が知れません、一刻も早くこの場をお逃げ出しになりませんと、命までが危のうございますよ。それで、わたしどもがまた迎えに上ったんでございます。早くお逃げなさいまし、わたしと一緒にこの宿屋をお逃げなさいまし、取る物も取り敢えずお逃げなさらなく
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