てるばかりと、小刀を膝のところへ取り上げて、その後の成行を怖ろしい思いで待っていました。
 けれども、待ち構えている役人も手先も、容易にやって来る模様は見えませんでした。かなり身体も心も疲れているから、もう寝てしまいたい時刻であったけれど、いつ役人が押しかけて来るか知れないのだから、寝てしまうわけにもゆきませんでした。
 行燈《あんどん》の影に、ぼんやりと小刀を膝の上へ載せたままで、限りのない心細い思いと、それから危険を前にした一種の張りきった心とで、お松は事のなりゆきを待っています。
 甲府から江戸までは僅かに三十余里の旅、前に長い旅をしていた経験から、それをあまりにたかを括《くく》った無謀を、ことごとにお松は覚《さと》ってくるのでありました。
「もし、役人に引き立てられて、本陣とやらへ行かねばならぬ場合には自害する、いっそ、こうなっては、その前にここで死んでしまった方がよいかも知れぬ」
 お松は、調べられて一切が曝露した暁に恥辱を取るよりは、それより前に死んでしまった方がと、さしもに気が張っているお松も、とても逃れぬ運命と死を覚悟してみると、一時に心弱くなってきて涙を落しました。

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