ったところと申し、ちと不審の儀がござる」
「不審と仰せらるるのは?」
「よろしい、しからば後刻また改めてお伺い致そう、御迷惑ながらそれまでは、このお宿をお立ち出でなさらぬように願いたい」
「心得ました」
「これは御無礼の段、御用捨」
と言って役人と手先とは、ゾロゾロと帰ってしまいました。
 ともかくも帰ってしまったから、お松はホッと息をつきました。ホッと息はついたけれどこれは、いよいよ安心がならないのであります。存外、立入って調べることはしなかったけれども、実はここへ検束されてしまったのと同じことであります。後刻というのはいつ頃のことか知らないが、その時に来て委細を調べられてしまえば、何もかも曝露《ばくろ》されてしまうことであります。関所を抜けて来たことも表向きになってしまわねばならぬ。駒井能登守家中ということや、和田静馬ということの化けの皮もたちどころに剥《は》がれてしまわねばならず、その上に、あられもない男装して神尾の家を抜け出したことの一部始終は、たあいもなく露見してしまうのであります。お松はようやく、絶体絶命のようなところへ追い詰められる気持に迫られて、いざといえば自害をして果
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