、郡内は名うてのところであります。ですから、なるべく今まで馬も駕籠も傭わないことにしていました。がんりき[#「がんりき」に傍点]がついていたから、それでも今まで通って来たけれど、これからさき一人で歩こうものなら、どんなうるさい勧め方をされるかわからないし、万一、自分が女と知られた上は、またどんな目に遭うか知れたものでないと思いました。
今、ここでこの馬子から馬に乗れと言われてみると、もうこれが悪強《わるじ》いの最初ではないかと思われて、その馬子の面を見たのですけれど、主人の話しぶりを見ても、その人柄を見ても、性質《たち》の悪い馬子とは見えません。
お松は心をきめて、とうとうその馬に乗ることに約束しました。
馬子は喜びました。どのみち帰り馬のことだから、賃銭も安くするようなことを言いました。お松はどこまでというきまりをここではつけませんでした。けれど、実は上野原まで一気に行ってしまおうという心で、この馬に乗ることにしました。
この馬子の面はどこやら、先に甲府の牢を破った南条という奇異なる武士の面影《おもかげ》には似ているけれども、それはお松とは更に交渉のあることではありません。
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