見なければなりません。またお連れ様はとも尋ねてみないことを以て見れば、この宿では全然、自分に連れのあったことをさえ想像していないらしくあります。
 お松は合点《がてん》のゆかないことに思いながらも、食事を済ましてしまいました。
 日が暮れても、風呂が済んでも、いよいよ寝る時刻になっても、とうとうがんりき[#「がんりき」に傍点]は姿を見せないのであります。
 お松はそれを合点がゆかないことに思ったけれども、また多少安心をする気にもなりました。なぜならば、あんな気味の悪い男に導かれて行くことの不安心は、慣れぬ一人旅をして歩く不安心よりも、一層不安心であるからです。
 前途はとにかく、あの男と離れたことが、かえって幸いであったと、寝床に就いた時分にホッと息をつきました。
 お松がこんな装《よそお》いをしてまで、甲府を逃れ出さねばならなかった理由は、全くあっちでは行詰《ゆきづま》ってしまったからであることは申すまでもありません。内には神尾の圧迫があり、外には筑前守へ奉公の強要があり、自分としては兵馬やお君の事が気にかかり、能登守の運命にも同情したり、主人の神尾の挙動には、身ぶるいするほどに怖れ
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