したのは、前の本陣の宿ではなく、林屋という宿でありました。
ここへ着いての思い出は、お松にとって少なからぬものがあります。ここの本陣へ駒井能登守と共に泊り合せた一夜の出来事は、鮮《あざや》かにその記憶に残っているのであります。
お師匠様のお絹がここで何者にか浚《さら》われて大騒ぎを起しました。狼も棲《す》むというし、天狗も出没するという、このあたりに来た時は、あんなことがあり、帰る時にこんなことになって、剣呑《けんのん》な道づれに案内されて同じところの宿へ泊るというのも、お松にとって心強いものではありませんです。
ところが、この宿へ着いて旅装を解くと、まもなくがんりき[#「がんりき」に傍点]の姿が見えなくなってしまいました。お松は心には充分の警戒をして、万一の時は身を殺してもと思っているのですけれども、その警戒の相手が不意になくなってみると、なんとなく拍子抜けのようでもありました。いく時たっても、がんりき[#「がんりき」に傍点]は帰って来ませんでした。ついに夕飯の時になって見ると、その食膳は一人前であります。
これを以て見れば宿でもまた、自分に連れのあることは認めていないものと
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