廊下を渡って行くと、
「ちょッ、ちょっと、お角」
 裏の垣根越しに呼び留めたものがあります。
「どなた」
 お角がその垣根越しを振返って見ると、雨の中を笠をかぶって合羽《かっぱ》を着た人。
「おや、お前は百さんじゃないか」
「叱《し》ッ、静かに」
「誰も見ていないから、早くその土蔵の蔭から七番の方へお廻り」
「大丈夫かえ」
「大丈夫だよ、あの裏木戸から入って」
「合点《がってん》だ」
 その垣根越しの笠と合羽は、がんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵であることに紛《まぎ》れもありません。
 二度まで見舞に行こうとして出端《でばな》を折られたお角は、またしても第一番の室へ行こうとした足を引返して、七番の座敷へ舞い戻って来ました。この七番の座敷というのは、自分の部屋として借りてある座敷です。
 お角がそこへ戻って来た時分に、がんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵は、もう草鞋《わらじ》を脱いで縁の下へ突っ込んで、合羽を抱えてその座敷へ入り込んでいました。
「おっそろしい目に逢ったよ」
「何がどうしたの」
「昨日の夕方はお前、笹子峠の七曲りで狼に出逢《でっくわ》して、命からがらで逃げて来たんだ
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