ねて聞いてはいるし、またこのあたりの山々にはそれが住んでいて、時あっては人里までも出て来るという話も聞きました。けれども、そんな話をお君に聞かせることはよくないと思って、それで不快の感じがしたのであります。
「夜道などをするから悪いのじゃ、悠《ゆっ》くりと宿を取って日のうちに出で、日のうちに越えてしまいさえすれば、なんのことはなかろうに、無理をするからそんなことになる」
兵馬はそう思いました。一体深山に棲《す》む狼は群れを成しているものだそうだけれど、兵馬は今までの旅に狼というものに出逢ったことがありません。狼に出逢ったことがないばかりでなく、狼というものの生きたのも死んだのもその実物を見たことはありませんでした。それは絵にかいたものだけによって、そう信じているだけでありました。
こうは言うものの、明日、この女をつれて峠を越える時に、不意にそれらの悪獣に襲われたとしたら……それに対する用意をしておかなければならないのだと思いました。
いったん帳場へ帰って、狼が人を食った話を馬方の口から詳細に聞いたあとで、お角はまた再び第一番の室、すなわち兵馬とお君のいるところへ見舞に行こうとして
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