「これはどなた」
という声は、少年にしてはあまりに優しい声であります。
「生憎《あいにく》の雨で、さだめて御退屈でいらせられましょう」
「これは御内儀でござったか。生憎の雨のこと故、もう一日、出立を見合せまする」
「どうぞ御悠《ごゆる》りとお留まり下さりませ、なにしろ、音に聞えたこの笹子峠でござりまする、お天気の時でさえ御難渋の道でござりまする」
「明朝は駕籠を頼み申しまする」
「はい畏《かしこ》まりました。あの、明朝はこのように雨が降りましても、やはり御出立でござりますか」
「左様……雨が降っては」
「雨が続きましたら、もう一日御逗留なさいませ、ごらんの通りの山家《やまが》、お構い申し上げることはできませんけれど」
「しかし……ちと急ぐこともある故、もし明朝は雨が降っても峠を越したいと思いまする」
「左様でござりまするか。左様ならばそのように駕籠を申しつけておきましょう」
「よろしく頼みまする」
「それではそのおつもりで……どうぞ御悠《ごゆる》りと」
お角はお辞儀をして出て行こうとすると、
「あの、御内儀……」
美少年は何か頼みたいことがあるもののように、立ちかけたお角を呼び留
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