れは真中の卓子《テーブル》の上へ裸蝋燭《はだかろうそく》を一本立てて置いてあるのであります。その裸蝋燭の光で朦朧《もうろう》としてそこに二箇《ふたつ》ばかりの人影が、卓子を囲んでいることを能登守は認めることができました。その何者であるかを、一見しては見極《みきわ》めることはできませんでしたけれども、二度目によく眼を定めて見れば、それが破牢人の片割れであることは直ぐに知れたのであります。
 能登守は微笑しました。逃げ込むのにことを欠いて、この室内へ逃げ込んで来るとは、飛んで火に入る虫よりも無謀な者共であるわいと、腹の中でおかしいくらいに思いました。
 しかしながら、それにしても彼等が存外、落着き払っていることが、能登守をして多少感心させないわけにはゆきません。それと知るや知らずや彼等は、世の常のお客に来たような心持で、椅子へ腰をかけて、物珍らしそうにこの室内を見廻しているのでありました。
「ははア、なんとこれは珍らしい一室である、見給え、壁の間には大きな黒船の額がかかっている、洋夷《ようい》の調練している油絵がある、こちらの棚に並べてあるのはありゃ大砲の雛形《ひながた》で、五大洲の地図もあれば地球儀もある、本箱に詰っているのはありゃみんな洋書で、あの机の上のは舶来の理学の器械や外科の道具と見ゆるわい、それにまたこの一室の全体が日本の造りではないわい、この板の間に敷きつめてあるのも、こりゃ和蘭《オランダ》あたりの代物《しろもの》らしい。いったいこの部屋の持主はこりゃ何者だろう。こうして見ると我々は南蛮の国へでも流れついたようで、トンと甲州にいる気はしない。もし日本の者ならば、長崎の高島秋帆《たかしましゅうはん》先生か、信州の佐久間象山《さくましょうざん》先生あたりの部屋を見るようだわい」
 こう言ってしきりに室内を見廻して興がっていたのは、それは獄中で紙撚《こより》をこしらえていた奇異なる武士、すなわち仮りの名を南条と呼ばれていた破牢者でありました。彼は多年獄中にあっての蓬々《ぼうぼう》たる頭髪と茫々《ぼうぼう》たる鬚髯《しゅぜん》の間から、大きくはないが爛々《らんらん》と光る眼に物珍らしい色を湛《たた》えて、しきりにこの室内を見廻しているのであります。
「なるほど、これは妙なところへ落着いた。昔大江山の奥に酒呑童子《しゅてんどうじ》が住んでいた、それを頼光《らいこう》が退治した。酒呑童子は鬼の化身《けしん》だと俗説に唱えられていたが、近頃それはポルチュガルの漂流人が、あの山へ隠れていたのだと新奇な説を唱え出した学者がある。してみればこの部屋も、これは舶来の酒呑童子が甲州へ分家を出したのかも知れぬ、してみると我々は、さしむき渡辺の綱であり坂田の金時であるわけだが、実はうっかりすると退治られる方で、退治る方の役廻りでない」
 卓子《テーブル》の上へ頬杖をつきながらこう言って笑っているのは、二番室にいた破牢の先達《せんだつ》で、これもその名を仮りに五十嵐と呼ばれていた壮士でありました。
 この南条と五十嵐と二人の話しぶりは傍若無人《ぼうじゃくぶじん》でありました。実際|傍《かたわら》に人はないのであったが、それにしてもこの夜中に人の家へ忍び込んだ者の態度としては、あまりに傍若無人でありました。
 しかしながら駒井能登守は、この傍若無人をかえって興味を以て見、かつその会話を聞かないわけにはゆきません。彼等がこの上どんな挙動に出るかを究《きわ》めてみなければならなくなりました。それ故に能登守は扉をあけることもせずに、鉄砲を携えたままで、例の隙間《すきま》から窺《うかが》っているのであります。そうすると南条は立ち上りました。立ち上って書棚の方へ行って、並べてある書物を一通り見て廻りましたが、最後にその中の一冊を抜き取って前の裸蝋燭のところまで持って来て、
「蘭書《らんしょ》だ」
と言いました。
「何が書いてあるのだ」
と五十嵐が尋ねました。
「スメルトクルース、つまり鎔坩《るつぼ》のことだ、鉱物を鎔《と》かす鎔坩のことを書いてある和蘭《オランダ》の原書だ」
と南条が説明しました。
「それはますます珍《ちん》だ、ここの主人は洋行した鍛冶屋《かじや》でもあるのか」
「こりゃあ高島先生のお弟子か或いは江川坦庵《えがわたんあん》の門下であろう。それにしても今時こんな書物を、甲州の山の中で読んでいるというのが変っている」
 南条は首を捻《ひね》りながらその蘭書を開いてパラパラと二三葉飛ばして見ていました。これによって見れば、ともかくもこの南条は蘭書が読める人らしいのであります。五十嵐の方は覚束《おぼつか》ないと見えて、本をひっくり返している南条の手元ばかりをながめていましたが、
「とにかく、火を熾《おこ》そうではないか、そこに火鉢がある」
 能登守が
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