平常《ふだん》用ゆる大火鉢へ眼をうつしました。
「うむ」
 南条の方は、まだ蘭書から眼をはなしません。五十嵐は立って火鉢のところへ来ました。そこにあったたきつけと炭とを利用して、
「ちょっと、燈火《あかり》を借りるぜ」
 卓子《テーブル》の上の裸蝋燭《はだかろうそく》を取って火を焚きつけて、また元のところへ立てて置きました。
 まもなく焚付の火が勢いよく燃え上ると、炭火もそれにつれて熾《おこ》りはじめました。五十嵐はその火を盛んにするようにつとめていましたが、南条は足を踏み延ばして火鉢の縁へかけ、片手を翳《かざ》したままでその蘭書をながめていました。
「面白いか」
 五十嵐がまた尋ねました。
「別に面白いというべきものではない、ただ鉄を鎔《と》かす方法が書いてあるのだ。イギリスの鎔坩《るつぼ》は鋼鉄を鎔かすことができるとか、イプセルとはどうだとかいうことが書いてあるのだ」
「さあ、いい塩梅《あんばい》に火が熾った、宇津木にもあたらせてやれ」
 一方を顧みると、そこに何人《なんぴと》かが寝かされていて、その上には、能登守がここで日頃用ゆる筒袖《つつそで》の羽織が覆いかけてあるのでありました。
 能登守はそれと知って苦笑いし、いまさらにその室内の隅々までよく覗いて見ましたけれども、そのほかには人らしい影は見えません。つまりこの室内にあるのは、前から傍若無人に話していた二人と、別に寝かされている一人と、都合三人だけであることを確めました。
「それはそうと、南条、これから我々はどうするのじゃ」
と五十嵐は、火にあたりながら蘭書を見ている南条の横顔を覗きました。
「そうさなあ」
と南条は本を伏せて五十嵐と顔を見合せました。
 南条と五十嵐とは椅子に腰をかけたまま、火鉢の火にあたって膝を突き合せて話をはじめました。
 その話というのは、これからの身の振り方であります。
 彼等はその挙動の傍若無人である如く、言語もまた傍若無人でありました。それは高談笑語でこそなけれ、ややはなれた能登守の立聞くところまで、尋常に聞える話しぶりでありました。
「実は、おれも弱っているのだ」
と言って、本を伏せた南条が弱音を吐きました。けれども格別弱ったような顔色ではありません。
「あの贋金使《にせがねづか》いが万事を取りしきって、山へ逃げさえすれば、衣裳も着物も用意がしてある、食糧も充分で、直ぐに信州路へ立退くようにしてあると言うから、それを信用していたのだ。あの贋金使いという奴は心の利いた奴だから、それを信用して間違いないと思っていた、また事実、間違いはなかったのだろうけれど、途中で犬に吠えられたのが運の尽きでこんなことになってしまった。これから先はどうと言うて、拙者にもいっこう考えがつかぬ、五十嵐、君に何か思案があらば聞こうではないか」
「君に思案のないものを拙者において思案のあろうはずがない、ともかくも杖と頼んだあの贋金使いとハグれたのが我々の不運じゃ、悪い時に悪い犬めが出て来て邪魔をしたのがいまいましい」
「闇と靄との中から不意に一頭の猛犬が現われて出て、我々には飛びかからず、あの贋金使いに飛びかかった、贋金使いも身の軽い奴であったが、あの犬には驚いたと見えて逃げたようだ、それを犬が追いかけて行ったきり、どちらも音沙汰《おとさた》がない、声を立てて呼ぶわけにはいかず、跡を追いかけるにもこの通りの闇、そのうち前後左右には破牢! 破牢! という捕手の声だ、それを潜《くぐ》って、やっとここへ忍び込んだけれど、これとても鮫鰐《こうがく》の淵《ふち》の中で息を吐《つ》いているのと同じことだ」
「さあそれだから、いつまでもこうしてはいられぬ、まだ夜の明けぬうち、この靄と闇との深いうち、ここを逃げ出すよりほかに手段はあるまい。この場合ぜひもないから、この室に金銀があらば金銀、衣服があらば衣服、大小があらば大小、それらのものを借受けて出立致そうではないか」
「待て待て、外の様子に耳を傾けてみるがいい」
 それで室内が森《しん》として静まると、外でする喧《やかま》しい声が、鳥の羽音のように聞え出しました。それは能登守が前に聞いたのと同じく、この屋敷のまわりを走り廻る捕手の者が罵り合う声であります。それに加うるに、この屋敷の長屋に住んでいた者までが、起きて加わって罵り噪《さわ》いでいる様子であります。
「なるほど」
 五十嵐はそれを聞くと、観念をしたものらしくあります。
「これでは、外へ出られぬ」
 二人は、またも暫く沈黙して室の中が静かになりました。
「よしや、斯様《かよう》に捕方に囲まれずとも、このままで逃げ了《おお》せるものではない、山野を駈けめぐっているうちに、飢えと疲れが眼の前へ来て、やがて見苦しいザマで引戻されるにきまっている、どちらにしても袋の鼠になってしま
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