大菩薩峠
如法闇夜の巻
中里介山
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)絨氈《じゅうたん》
|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)一声|怒鳴《どな》れば
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号)
(例)※[#「手へん+堂」、第4水準2−13−41]《どう》と
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一
お君は、やがて駒井能登守の居間へ通されました。
能登守の居間というのは、そこへ案内されたお君が異様に感じたばかりでなく、誰でもこの居間へ来たものは、異様の念に打たれないわけにはゆかないものであります。それは畳ならば六十畳ほどの広さを持った居間に、畳を敷いてあるのでなく、板張りにして絨氈《じゅうたん》のようなものが敷き詰められてありました。
その広い室の中央と片隅とに卓子《テーブル》が置かれて、その周囲には椅子が置かれて、四方には明るく窓が切ってあります。
長押《なげし》の上や壁の間には、いくつもの額が掲げられてありますが、どの額も、軍艦や大砲やまた見慣れない風景や建築の図案であります。それから書棚には多くの書物があります。その書物には洋式の書物が特にめだっているのみならず、書棚の隅や、本箱の上、また別に棚を作って、見慣れないさまざまの武器の実物と模型とが、無数に陳列されてあります。
さまざまの武器といううちにも、ことに鉄砲が多く、ことに小銃にはいくつかの実物があり、大砲は模型として順序よく並べられてありました。
旧来の屋敷を、こんなに能登守が好みで建築をし直したものだと、お君はそのくらいのことはわかりますけれども、そのほかのことは、めまぐるしいほどで、なんと言ってよいかわかりません。
その卓子《テーブル》の近くの椅子の上へ腰をかけてよいのだか、また絨氈の上へ坐らねば失礼であるのだか、それさえお君にはわかりませんで、案内のあとに隠れてただポーッとして立ち竦《すく》んでしまったようです。能登守はその時、片隅の椅子に腰かけて卓子に向っていました。
黒羅紗《くろらしゃ》の筒袖の陣羽織を着て野袴を穿《は》いていました。門番の足軽が言った通り、今まで調練の指図《さしず》をしていたのが、それが済んでからここへ来て、書物を開いて何か書いているのでありましょう。その書物は、やはり見慣れない文字の書物であります。それを見慣れた文字に書き直していたようであります。今まで広場で調練の指図をしていたという能登守は、それがために血色が活々《いきいき》として、汗ばんだところへ黒い髪の毛が乱れかかっていました。
「よくおいでなされた、暫らくそれでお待ち下さい」
と言って、筆を持ちながら、お君の方へ向いて莞爾《かんじ》とした面《おもて》には、懐しいものがあります。
「はい」
お君は、やっぱり立ち場に困って、椅子へ腰をかけるのは失礼であろうし、そうかと言って、絨氈の上へ坐って笑われはすまいかとの懸念《けねん》で、真赤になって立ち竦んでいるのみであります。
駒井能登守は和蘭《オランダ》から渡った砲術の書物を、いま自分の手で翻訳しているところであります。ちょうどそれを程よいところでクギリをつけてから筆をさしおいて、その椅子から立ち上って、
「お君どの、よく見えましたな、一人で……」
と言って能登守は、真中にある方の大きな卓子《テーブル》の方へ進んで、
「さあ、それへお掛けなさるがよい」
「はい」
能登守は、お君に椅子をすすめながら、自分も椅子に凭《よ》りました。お君はようやく、その椅子へ腰を卸して、能登守と卓子を隔てて座にはつきましたけれど、恥かしいやら恐れ多いやらの感じで、胸がいっぱいです。
「先日は結構な下され物を、まことに有難う存じました」
やっとの思いで、お君はこれだけのお礼を、能登守の前へ申し述べたのであります。
「ナゼお前は、わたしのところへ来てくれない」
と能登守は砕けてこう言いました。その言葉の温かみは感じたけれども、その意味がお君には、よく呑込めませんでした。
「お礼に上ろうと存じましても、あまり恐れ多いものですから……」
お君は、おどおどとして申しわけをしました。
「お前がわしのところへ来てくれると、わしは嬉しいけれども、伊太夫の家で、お前を放すことはできぬというからぜひもない」
と能登守は、お君の横顔を見ながらこう言いました。この一語は、少なからずお君の胸を騒がせました。今までは身分の違う人の前と、見慣れぬ結構の居間へ通されたことから、気がわくわくしていたのですけれども、能登守の今の一言《ひとこと》は、それとは全く異《ちが》った心でお君の胸を騒がせました。
「わたくしは左様なことを、いっこう承りませぬ、主人からも、その
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