い、わたしも部屋へ帰って休みます、また明日ゆっくり話をしましょうよ、明日と限ったことはない、いつでもこれからは一緒にいて、あんまり離れて苦労しないことにしましょうよ」
 お君はこう言って、また寝ている人に蒲団をかけ直してやろうとして、思わずその寝面《ねがお》を見て喫驚《びっくり》して、
「おやおや、この人は、これは幸内さんではないか知ら」

         十一

 駒井能登守はこの時、何かに驚かされて夜具の中からはねおきました。それはお君が米友を潜りの木戸から呼び入れた時よりも、ずっと後であって、あの場面は一通り済んでしまった時でしたから、無論それを聞き咎《とが》めての驚きではありません。
 それは能登守がいま寝ている屋根の上で、たしかに人の歩むような物の音がするから、それに耳を傾けたのであります。そう思えば、たしかにそうであります。屋根の瓦を踏んでミシリミシリと音がする。時としてはその瓦が、踏み砕けたかと思われる音がするのでありました。
 しかしながら、もしも怪しい者がその辺に来ているならば、能登守が驚く以前にムク犬が驚かねばならないのであります。しかるにムク犬はなんとも言わないで、今や寝入ろうとした能登守の耳を驚かしたものとすれば、ムク犬はまたしてもどこへか夜歩きをはじめて、この邸にはいなくなったものと見なければなりません。
 能登守がなおも屋根の上の物音に耳を傾けている時に、今度は屋敷の外まわりでバタバタと駈ける人の足音が聞えました。その足音は一人や二人の足音ではなく、両方から来て走《は》せ違うような足音でありました。
「や、これはこれは、御同役、お役目御苦労に存ずる」
という出会いがしらの挨拶が聞えました。
「なんにしても深い靄《もや》でござるな、鼻を摘《つま》まれても知れぬと言うけれど、これは鉢合せをするまでそれとは気がつかぬ、始末に悪い晩でござるわい。それはそうとこのお屋敷は、これは御支配の駒井能登守殿のお屋敷ではござらぬか」
「いかさま、これは能登守殿のお屋敷じゃ。実は我々共、たった今ここまで怪しいものを追い込んで参ったのでござるが、この辺でその跡が消えたのでござる」
「それはそれは。実は我々共も、お花畑の外よりどうやら怪しげな人の足音を追いかけて、ここまで来てみるとその足音が消え申した」
 塀の外におけるこれらの問答が、いま、屋根の上の物音だけで耳を澄ましていた能登守の耳へ歴々《ありあり》と聞えました。屋根の上のは何者とも知れないが、この塀の外のはまさしく捕方《とりかた》の人数であります。捕方の人数というのは、今宵《こよい》破牢のあったそれがために、まだまだこの辺を固めている役人の手配が、少しも弛《ゆる》まないことが知れるのであります。
「次第によったら、この能登守殿のお屋敷の中へ忍び込んだかも知れぬ、御門番を起して案内を願うてみようか」
「この夜中《やちゅう》、お騒がせ申しては相済まぬ、もう暁方も間近いほどに、このあたりを蟻も這《は》い出ぬように固めて待とうではないか、暁方にならば風が出るでござろう、風が出たならば自然に靄も吹き払われるでござろうから」
 こんな申し合せの声も聞えます。そうして彼等はこの屋敷のまわりを固めているらしいのであります。
 能登守はそれと頷《うなず》いている時に、暫らく静かにしていた屋根の上の足音がまた、ミシリミシリと聞えはじめました。つづいて※[#「手へん+堂」、第4水準2−13−41]《どう》と庭前《にわさき》へ落ちる物の音がしました。つづいて軒下を密《ひそ》かに走る者がある様子です。暫らくすると、どこをどうしたかそれらの足音が、たしかにこの家の中へ入って来ているのであります。しかも能登守のいま寝ているところから僅かの廊下を伝って行き得る、あの洋式の広間へ入り込んでいるらしいのであります。
 この時に能登守は起き上って寝衣《ねまき》の帯を締め直しました。寝衣の帯を締め直すと共に床の間にあった、銃身へ金と銀と赤銅《しゃくどう》で竜の象嵌《ぞうがん》をしてある秘蔵の室内銃を取り上げました。
 室内銃というてもそれは拳銃ではありません。普通の火縄銃よりは少し短いものであって、やはり火縄銃ではありません。
 これはコルトの五連発銃というのによく似たものであります。けれども舶来のものではありません。能登守自身が工夫して作らせた秘蔵のもので、五連発だけは充分に利くのです。
 能登守はこの室内銃を携えて、寝間を抜け出して廊下伝いに離れの洋式の広間へと、そっと忍んで行きました。
 廊下を突き当って、その洋式の研究室へ入るには、やはり洋式の扉《ドア》であります。扉の傍の窓の隙から能登守はまず室内の様子を覗いて見ました。
 火の気のなかるべきところに意外にも燈火《あかり》が点《つ》いています。そ
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