た障子を押し開きました。それと共にこの時までまだ戸を締めておかなかった不用心を、お君は気がついて悔ゆるような心になりました。
邸の外は庭の中までもいっぱいに例の闇と靄《もや》とで、その中にいる真黒な犬の形は、とてもこちらからは見ることができませんけれども、その鼻息で充分にわかります。
「帰って来たらいいから、もうお寝、これからこんな晩には外出《そとで》をしてはなりませんよ」
お君はムク犬に寝よとの許しを与えました。それはいつもムク犬がするように、今夜は少し晩《おそ》くなったけれども、やはりその例で挨拶に来たものとばかり思ったからであります。
けれどもまたムク犬は、今夜に限ってその許しを柔順に受けないで、縁先へ首をつきだして物を訴えるような素振《そぶり》であります。
「どうしたの」
ムク犬はその巨大な面《かお》と優しい目で、お君の面を見上げたのは、自分はよんどころない用事が出来て外出致しました、こんなことは滅多にありませんから、今晩のところはどうぞ悪しからず御免下さいまし、と申しわけをするように見えました。そうしておいて自分の首をグルリと半分ばかり外の方へ廻して、また主人の面を見上げました。それだけでお君にはムク犬の心持がよく呑込めました。
「お前、誰か連れて来たのだね」
見廻した外の方向には板塀があって、そこには木戸があるはず。
「困ったねえ」
とお君は、その木戸口の方とムク犬の面とを等分にながめて、しばらく思案に暮れました。
「お前、あの木戸をこの夜中にあけられるものかね。それに今夜はお前、牢破りの悪人があったりなんぞして、怖《こわ》い晩ではないか。こんな怖い晩に、お客様なんぞを連れて来られては、わたしも迷惑するし、連れて来られたお客様だって、どんな疑いをかけられるかわかりゃしないじゃないか」
お君はこう言ってムク犬を詰《なじ》りました。けれども強く叱ることはできません。ナゼならば今までムク犬のしたことで、その時はずいぶん腹が立っても、その事情がわかった時は、なるほどと感心することばかりでありましたからです。ムクのする通りにしなければ、取返しのつかないことになったものをと、あとでホッと息を吐《つ》いて感謝することが幾度あったか知れないからであります。それでここでもまた同じように、あの木戸をあけろという無言のムク犬の合図を、お君は何事とも知らずに無条件で信用しなければならなかったのであります。
けれども、この木戸は、すんなりとあけられない理由も充分にあります。今宵のような物騒な晩であることと、主人の居間近くであるということと、女一人の部屋であるということと、それらの用心は、お君としては或る場合には身を以ても守らねばならないのでありました。それ故お君は当惑しました。
しかし、ムク犬は主人の当惑に同情する模様がなくて、その縁に引いた打掛の裾をくわえてグイグイと引きました。その挙動は、主人をして退引《のっぴき》させぬ手詰《てづめ》の催促《さいそく》に見えます。ここに至るとお君はどうしても、すべての危険を忘れてムク犬を信用せねばならなくなりました。よしこの木戸をあける瞬間において、いかなる危険が予想されようとも、ムク犬の勇敢はそれを防いで余りあることを信ぜずにはいられません。
「待っておいで、いま燈火《あかり》を点《つ》けるから」
お君は、やがて雪洞《ぼんぼり》に火を入れて庭下駄を穿《は》きました。打掛の裾をかかげて庭に下り立って、ムクを先に立ててほど離れた木戸口の錠前を外《はず》すべく、静かに靄の中の闇を歩いて行きました。
ムク犬を先に立てて、お君はついに木戸の鍵《かぎ》を外してしまいました。用心して戸をガラリと開いて、
「どなた」
ムクの後ろの方からお君は、雪洞《ぼんぼり》を遠くさし出して塀の外を見やりました。塀の外も、やっぱり例の闇と靄とでありましたから、雪洞の光もさっぱり届き兼ねて、そこに何者が来ているかということがお君にはわかりません。
「今晩は」
いまあけた木戸口の前に立っているものがあります。
「どなた」
お君は二度問いかけました。ムク犬は鼻を鳴らして、何者とも知れない外の者に向って、入れ入れと促《うなが》しているように見られます。
「今晩は」
外に立っているものは、入っていいのだか悪いのだか計り兼ねて、遠慮をしているような塩梅《あんばい》でありました。
「どなたでございます」
お君は三たびこう言って外なる人に問いかけました。合点《がてん》のゆくほどの返答を聞かないうちには、入れということを言わないのであります。
「今晩は。どうも遅くなって済まねえが、入ってもようござんすかい」
と言って、外なる人が駄目を押しました。
「いったい、あなたはどこのお方で、このお邸へこんなに遅く、何の御用があって
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