した。能登守の立っている姿よりも、奥方の立ち姿がお君の的《まと》になっているのであります。
お君の姿がこの奥方の姿に似ているということは、能登守もそう思うし、家来たちもそう思うし、お君自身もまたそう思わないではないし、ことにお銀様の如きは、これがためにあらぬ嫉妬《しっと》を起して、それは弁解しても釈《と》けないことにまでなってしまいました。
「わたしも、明日からこの奥方様の通りに、片はずしに結《ゆ》って、この打掛を着てもよいと殿様がおっしゃった。奥方様がいらっしゃれば、奥方様の方からお許しをいただくのだけれども、ここでは殿様のお許しが出さえすれば、誰も不承知はないのだから、わたしは明日からそうしてしまおう。でも人に見られるときまりが悪い、御家来衆はなんとお思いなさるだろう。そんなことはかまわない、この家来衆よりもわたしの方が身分が重くなるのかも知れない。ああ、わたしが片はずしの髷《まげ》に結って打掛を着て、侍女を使うようになったのを、伊勢の国にいた朋輩《ほうばい》たちが見たらなんというだろう。わたしは出世しました、わたしは恋しい恋しいお殿様のお側で、お殿様の御寵愛《ごちょうあい》を一身に集めてしまいました、わたしのお殿様は世間のお殿様のような浮気ごころで、わたしを御寵愛あそばすのではありません、奥方様よりもわたしを可愛がって下さるのです。わたし、もうお殿様が恋しくて恋しくて仕方がない、わたしの胸がこんなにわくわくしてじっとしてはいられない」
お君は鏡台の前に立って悶《もだ》えるように、手を高く後ろへ廻して髪の飾りを取って捨てると、髪を振りこわしてしまいました。たった今、片はずしに結《ゆ》ってみたくてたまらなくなったからです。
お君はついに髪を解いて、そこで自分から片はずしの髷《まげ》を結ってみようとしました。櫛箱《くしばこ》を出して鏡台に向ったお君の面《かお》には、銀色をした細かい膏《あぶら》が滲《にじ》んでいました。お君の眼には、物を貪《むさぼ》る時のような張りきった光が満ちていました。
無教育な故にこの女は単純でありました。賤しい生れを自覚していたから、物事に思いやりがありました。今となってはその本質が、ひたひたと寄せて来るほかの慾望に圧倒されてしまいました。可憐《かれん》な処女の面影が拭い消されて、人を魅《み》するような笑顔《えがお》がこれに代りました。お君は鏡にうつる自分の髪の黒いことを喜びました。その面《かお》の色の白いことが嬉しくて堪《たま》りませんでした。それから頭へ手をやるたんびに、わが腕の肉が張りきっていることに自分ながら胸を躍らせました。お君はこうして、その写真を見ながら髪を結っては、また写真を見比べるのでありました。おそらくはその姿を能登守に見せたいからではありません。ただこの場で今宵限りこの打掛を着て、この奥方の通りに片はずしに結って、ひとりでながめていることだけに、このわくわくと狂うような胸の血汐《ちしお》を押鎮めようとするに過ぎないらしいのであります。
お君は、どうやら自分の手で、それを本式の長髱《ながづと》の片はずしに結んでしまい、ばらふ[#「ばらふ」に傍点]の長い笄《こうがい》でとめて、にっこりと媚《なま》めかしい色を湛《たた》えながら、例の奥方の写真を取り上げました。眉を払ってあの奥床《おくゆか》しい堂上のぼうぼう眉を染めることだけは、奥方のそれと並ぶわけにはゆきませんけれども、お君はわざわざそんなことをしないでも、これで充分に満足しました。燈火の下で合せ鏡までしてその髪の出来具合をながめたり、また立ってその打掛の裾を引いてみたり、立ってみたり居てみたりして堪《たま》らない心です。
お君がこうして夢中の体《てい》でいる時分に、その窓の外で風の吹くような音がしました。夢中になっていたお君には、その音などは耳に入ることがありません。つづいて刷毛《はけ》を使ってみたり髱《たぼ》をいじってみたり、どこまで行ってこの奥方ごっこに飽きるのだか、ほとほと留度《とめど》がわからないのであります。
しかしながら、その風の吹くような音が止んで直ぐに、それほど夢中であったお君が、その夢を破られないわけにはゆかなくなったのは、それが風の音だけでなかったからであります。
「ワン!」
というのは犬の声、愛すべきムク犬の声でありましたから、この声だけには、お君もその逆上《のぼ》せて逆上せて留度《とめど》を知らない空想から、今の現在の世界へ呼び戻されないわけにはゆきません。
「ムクかい」
お君はあわてて立ちました。
「お前、今までどこへ行っていたの、こんな晩にこそお邸にいて御門を守らなければならないのに、今夜に限って外へ出歩いて、いくら呼んでも出て来ないのだもの、いくら心配したか知れやしない」
庭の方へ向っ
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