使われるお前でなくて、人を使う身分と心得てよいのじゃ」
「…………」
 お君には何とも返事ができませんでした。殿様にこう言われたことが嬉しいのならば、もっと先になぜあんなに拗《す》ねるようなことをして見せたのだ。またこう言われることが嬉しくないのならば、今この場でそれはお言葉が違いますとキッパリ言わないのだ。
 どちらともつかないお君は、何とも返事をすることができないで、やはりこの殿様の膝元に泣き崩れているのを、能登守はその背中へ軽く手を当てました。
「殿様、それでも……あの、奥方様がこちらへおいでになりました時は、わたくしの身はどう致したらよろしいでござりましょう」
「ナニ奥が? あれは病気で、とても、もう癒《なお》るまい」
「おかわいそうなことでござりまする、どうぞお癒し申して上げたいことでござりまする」
「癒してやりたいけれども、病が重い上に天性あのような繊弱《かよわ》い身で……」
「さだめて御病気中も、お殿様のことばかり御心配あそばしてでござりましょう、それがためによけい、お身体にも障《さわ》るのでござりましょうから、おいとしうてなりませぬ」
「あれは存外冷たい女である――自分の病のことも、我等が身の上のことも、さほどには心配しておらぬ、物の判断に明らかな賢い女ではあるけれど……」
 能登守の述懐めいた言葉のうちには、その奥方に対する冷静な観察と、自然何か物足らない節《ふし》があるように見えます。
「どうして左様なことがありますものでござりましょう、奥方様は、どんなにか殿様を恋しがっておいであそばしますことやら」
「いやいや、あの女は恋ということを知らぬ、恋よりも一層高いものを知っているけれど……それはあの女の罪ではなくて堂上に育った過《あやま》ちじゃ、過ちではない、それが正しい女であろうけれども」
「殿様、奥方様の御身分と、わたくしの身分とは……違うのでござりまする」
「それは違いもしようが」
「奥方様のお里は?」
「それはいま申す通り堂上の生れ」
「堂上のお生れと申しまするのは」
「それは雲上《うんじょう》のこと、公卿《くげ》の家じゃ」
「まあ、あのお公卿様、禁裏《きんり》様にお附きあそばすお公卿様が、奥方様のお里方なのでござりまするか」
「父は准大臣《じゅんだいじん》で従一位の家、兄に三位《さんみ》、弟には従五位下《じゅごいのげ》の兵衛権佐《ひょうえごんのすけ》がある。その中で育った女、氏《うじ》と生れとには不足がないけれど……」
 お君は能登守の奥方の門地《もんち》というものを、初めて能登守の口から聞きました。
 その晩、おそく自分の部屋へ戻ったお君は、しばらく鏡台の前へ立ったままでおりました。その身には大名の奥方の着るような打掛《うちかけ》を着て、裾を長く引いておりました。その打掛は、縮緬《ちりめん》に桐に唐草《からくさ》の繍《ぬい》のある見事なものでありました。鏡台の前を少し離れて立って、自分の姿に見惚《みと》れているお君の眼には、先の涙が乾いてその代りに、淋しい笑《え》みが漂うていました。淋しい笑みの間には、堪《こら》え難い誇りが芽を出しているようにも見えました。
 ことに鏡の前に立てかけてあった写真の面《かお》と、自分の打掛姿を見比べた時に、お君の面には物に驕《おご》るような冷たい気位を見せていました。
「奥方様はどんなに御身分の高いお方でもわたしは知らない、わたしはまたどんなに賤《いや》しい身分のものであっても、今となっては知らない。お殿様がわたし一人をほんとうに可愛がって下さるから、わたしはお殿様お一人を大切にする。わたしのような者がお殿様に可愛がられることが、わたしのために善いか悪いか、今、わたしにはそんなことは考えていられない。それでは御病中の奥方様に済むものか済まないものか、それもわたしにはわからない。わたしは本当にもうあのお殿様が恋しくて恋しくて、わたしは前からあんなにお殿様を恋しがりながら、なぜ泣いたり逃げたりしていたのだろう、ああ、それが自分ながらわからない。わたしはお部屋様になりたいから、それでお殿様が好きなのではない、わたしにはもうどうしたってあのお殿様のお側《そば》は離れられない、お殿様のおっしゃることは、どんなことでも嫌とは言えない。わたしの身体《からだ》をみんなお殿様に差上げてしまえば、お殿様のお情けはきっとわたしにみんな下さるに違いない。奥方様には本当に申しわけがないけれども、お殿様をわたしの物にしてしまわなければ、わたしはのけものになってしまう」
 お君の写真を見ている眼は、火が燃えるかと思われます。その口から言うことも、半ば呪《のろ》いのような響でありました。お君が見ている写真というのは、最初にこの邸へ訪ねて来た時に、心あってか能登守より貰った奥方と二人立ちの写真でありま
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